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| 鎌倉で五大明王を祀るのは明王院のみ。 明王とは、大日如来の命により、怒りの姿ですべての魔障を降伏させる尊像。 明王院の五大尊像には、それぞれの堂が建てられ、中心に不動、東に降三世、西に大威徳、南に軍荼利、北に金剛夜叉が祀られていたという。 そのため明王院は「五大堂」と呼ばれていた。 江戸時代の火災により四体が焼失し、鎌倉時代のものは不動明王のみとなっている。 |
| 木造不動明王坐像 |
| 鎌倉時代。 像高85.3p。 五大堂の本尊。 慶派仏師の作と考えられ、肥後定慶の作であるともいわれている(国重文)。 肥後定慶は運慶の父康慶の弟子といわれるが、近年では運慶の次男・康運のことだとする説が有力となっている。 『吾妻鏡』によると、1235年(文暦2年)5月27日、北条泰時は将軍藤原頼経室の竹御所一周忌に造仏を行い、仏師は肥後法橋だったのだという。 この肥後法橋とは定慶のことで、『高山寺縁起』は地蔵十輪院の四天王像のうち広目天を造立した仏師を「康運改名定慶」と紹介していることから定慶=康運という推測が成り立つのだとか。 参考までに・・・ 鎌倉の伝統工芸「鎌倉彫」は、陳和卿が中国の宋より持ってきた彫漆工芸を真似て、康運が仏具を作ったのを始まりとしている。 常楽寺の阿弥陀三尊像も肥後定慶作と考えられ、円応寺の初江王坐像を彫った幸有は、肥後定慶の弟子筋という見方が有力。 |
| 高山寺は、畠山重忠や北条泰時に信仰された明恵が中興した寺院。 かつての金堂には、運慶建立の地蔵十輪院にあった廬舎那仏と四天王像が移されていたのだという。 |
| 興福寺の東金堂の国宝・木造維摩居士坐像と木造文殊菩薩坐像は定慶作といわれているが、この定慶と肥後定慶は別人。 |
| 木造降三世明王立像 |
| 江戸時代。 像高79.1p。 三面八臂。 1712年(正徳2年)、鎌倉仏師三橋左京重信・重房の作。 |
| 木造軍荼利明王立像 |
| 江戸時代。 像高76.2p。 一面三目八臂。 手足に蛇が巻きついている。 1712年(正徳2年)、鎌倉仏師三橋左京重信・重房の作。 |
| 木造大威徳明王騎像 |
| 江戸時代。 像高61.1p。 三面六臂六足で、頭上に三面をのせ各面とも三目。 水牛の上に乗っている。 1712年(正徳2年)、鎌倉仏師三橋左京重信・重房の作。 |
| 木造金剛夜叉明王立像 |
| 江戸時代。 像高81.3p。 四面六臂三目。 1712年(正徳2年)、鎌倉仏師三橋左京重信・重房の作。 |
| 明王院は将軍の祈願所として創建され、五大明王を祀る寺院として壮麗を極めた。 現在も本堂に安置されている五大明王像は、鎌倉で唯一の尊像。 |
| 鎌倉市十二所32 0467(25)0416 鎌倉駅から金沢八景・大刀洗行バス 「泉水橋」下車徒歩5分 |
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