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円応寺の木造初江王坐像(しょこうおう)は、運慶の慶派の流れと宋風の文化とが混じった様式で、東国に残る鎌倉彫刻中でも屈指の優品。 国の重要文化財。 鎌倉時代、寄木造。 像高103p 胎内の墨書から建長3年(1251年)に仏師・幸有(こうゆう)によって造立されたことが判明している。 現在は鎌倉国宝館に寄託。 |
幸有は康運の弟子 |
幸有についての詳細は不明だが、慶派の仏師と考えられ、肥後定慶の弟子筋という見方が有力。 そして、定慶は運慶の次男康運のことだとする説が有力。 鎌倉の名産品「鎌倉彫」は康運が作った仏具を始まりとしているといわれている。 『吾妻鏡』によると、1235年(文暦2年)5月、四代将軍九条頼経の妻竹御所の一周忌の追善供養のための造仏を任されたのは定慶(康運)。 同年、定慶の弟子とされる康定が頼経の病気平癒のための造仏を任されている。 参考までに・・・ 常楽寺の阿弥陀三尊像や、明王院の不動明王像は定慶作とする説がある。 |
興福寺の東金堂の国宝・木造維摩居士坐像と木造文殊菩薩坐像は定慶作といわれているが、この定慶と肥後定慶は別人。 |
鎌倉大仏 |
鎌倉大仏も運慶様式と宋様式が取り入れられた仏像といわれている。 『吾妻鏡』によると、1238年(嘉禎4年)3月に大仏堂の事始めが行われ、5月には大仏の頭が挙げられている(この時の大仏は木造)。 現在の鎌倉大仏は、円応寺の初江王坐像が造立された翌年から鋳造が開始され完成した銅像だが、その原型は木造大仏で嘉禎4年以前に考えられていたと推測できる。 時代からすると、康運や弟子の康定、初江王坐像が造立した幸有も関わっていたのかも・・・ |
北鎌倉:圓應寺の初江王坐像(okadoのブログ) 地獄の閻魔(円応寺)・救済の観音(長谷寺)・極楽浄土の阿弥陀(鎌倉大仏) |
円応寺は、死後に出会う十王を祀る寺。 特に「初江王坐像」は、京都や奈良には見られない宋風を加味した鎌倉独自の地方様式を伝える。 |
鎌倉市山ノ内1543 北鎌倉駅から徒歩15分 |
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