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奈良仏師の正系 |
成朝(せいちょう)は、平安時代末から鎌倉時代にかけて興福寺を拠点に活躍した奈良仏師の正系。 傍系の康慶・運慶父子と同時代を生きた仏師だが、成朝の遺作とされている仏像は現存していない。 |
無位の仏師 |
奈良仏師は、藤原道長の法成寺の造仏を担当して、仏師としてはじめて僧綱位(法橋)を得た定朝の流れをくむ仏師集団。 定朝以後、直系の院派・円派及び奈良仏師には僧綱位が与えられてきた。 僧綱位とは、仏師が与えられた位階で、下から法橋・法眼・法印。 その僧綱位を正系の成朝より先に得た奈良仏師がいる。 それは、運慶の父康慶。 康慶は、1177年(治承元年)、後白河法皇の蓮華王院(三十三間堂)に建立された五重塔の造仏を任されて法橋の地位を得ている。 1164年(長寛2年)に蓮華王院が創建された際に中心となって造仏にあたったのは成朝の祖父・康助だったが、五重塔の造仏は成朝ではなく康助の弟子といわれている康慶だった・・・ 何故、康慶だったのか? 詳しいことは不明だが、康慶は単なる弟子ではなく成朝の祖父・康助あるいは父の康朝と何らかの血縁関係にあったと考えられているらしい。 そして、奈良仏師の後継者は成朝ではなく康慶という動きがあったのかもしれない。 |
三十三間堂は、後白河法皇が創建した蓮華王院の本堂。 現在の本尊・千手観音坐像は、運慶の子湛慶の作。 |
南都焼討と興福寺の復興 |
1180年(治承4年)12月28日、平重衡の南都焼討により奈良仏師が拠点としていた興福寺が焼失。 翌年から復興事業が始まり、法橋の康慶は南円堂の造仏を任されたが、無位の成朝には造仏の分担がなかった。 成朝は金堂・講堂の造仏をめぐって京都仏師の院尊(院派)や明円(円派)と争うが、任されたのは食堂の造仏だったのだという。 |
興福寺は、藤原鎌足の子不比等が建立した藤原氏の氏寺。 |
興福寺の南円堂は、藤原冬嗣が創建した堂で、南都焼討後の復興は、子孫でのちに関白となる九条兼実が担当した。 |
鎌倉に下向 |
しかし、成朝は食堂の造仏を開始しないまま、1185年(元暦2年)5月21日、源頼朝の南御堂(勝長寿院)の本尊造仏のため鎌倉に下向(『吾妻鏡』)。 10月21日には、金色の阿弥陀仏が勝長寿院に運び込まれているが、成朝はその後も鎌倉に滞在し、翌年3月2日には、興福寺東金堂の造仏を院派の院性が望んでいることを知って、頼朝に東金堂造仏の権利が自分にあることを訴えている。 頼朝は成朝を擁護する書状を京都に出しているが・・・ 食堂の本尊を成朝が造立したという記録はなく、東金堂の薬師三尊像は1187年(文治3年)に僧兵が飛鳥山田寺から奪取したものが充てられている。 |
勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺院。 後に北条政子によって五仏堂が建立され、運慶の五大尊像が安置されている。 |
法橋になったが・・・ |
鎌倉から奈良に戻った後の成朝の行動は不明だが、1194年(建久5年)、金堂の「弥勒浄土」造仏の功により、法橋に補任。 ただ・・・ 南円堂の造仏を担当した康慶は、その上の法眼になっていた。 翌年には康慶の子運慶も法眼になっている。 成朝は、時世に恵まれなかったのかもしれない。 その作品が現存していない今、その実力を知ることもできない。 成朝の没年は不明だが、「弥勒浄土」の造仏が記録に残されている最後の事績。 そして、康慶・運慶をはじめとする慶派の時代が到来する。 参考までに運慶は、1203年(建仁3年)に東大寺南大門の金剛力士像を造立した功績により、僧綱の極位である法印を得ている。 |
興福寺の中金堂は藤原不比等の創建。 不比等の一周忌に造立された弥勒浄土変の群像が安置されていたのだという。 |
頼朝が成朝を選んだ理由 |
源頼朝は、何故、勝長寿院の造仏を康慶や運慶ではなく成朝に依頼したのか? それは、成朝が定朝の嫡流だからといわれている。 系統や血筋を重視する頼朝らしい選び方だったのかも。 |
興福寺の北円堂は、藤原不比等の一周忌に建立された堂。 南都焼討後の復興仏は運慶が担当。 運慶は、源頼朝が勝長寿院に続いて建立した永福寺の造仏に関わったとする説がある。 |
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