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| ここは、平家の家人だった平盛久が処刑されそうになった場所。 盛久は、壇ノ浦の戦い後逃亡していたが、1186年(文治2年)に捕らえられて鎌倉に送られてきた。 由比ヶ浜で斬首の刑と決まったが、盛久は、京都清水寺の観世音菩薩を深く信仰していたので、熱心に祈りを続けた結果、処刑前夜に観世音の霊夢を見た。 そして、処刑のときになると、持っていた経巻から光が発散し、処刑人は目が眩んで振り上げた刀を落とし、太刀も2つに折れてしまった。 これを聞いた源頼朝は、盛久を招き・・・ 「自分も同じ夢を見た。観世音のお告げである」 として助命し、盛久は所望されて舞を舞ったのだという。 |
| ※ | 主馬(しゅめ)とは、馬や馬具を管理する役職のこと。 |
(湯河原町) |
| 清水観音を深く信仰していた源頼朝。 持仏堂の本尊としたのは、清水寺から下された二寸銀の聖観音像だった。 |
| 寛永寺の清水観音堂の本尊は、盛久が清水寺に奉納したものと伝えられている千手観音。 助命されて京都に戻り清水寺を参詣した盛久は、斬首されそうになったときに観音像が倒れたという話を聞き、観音像に護られていたことを悟り、感涙にむせんだのだという。 |
| 盛久は壇ノ浦の戦い後、京都に潜伏して清水寺に千日詣の祈願をしていたのだという。 1186年(文治2年)、清水参詣の帰りに北条時政に捕らえられ、鎌倉で処刑されることとなるが・・・ 午の日の午の刻、清水観音の力で命を救われた( 文治2年) そのため清水観音堂の千手観音は、初午の日に開帳されているのだとか。 |
| 盛久の父は平清盛の側近平盛国。 盛国は、壇ノ浦の戦い後に捕らえられ、平家の総大将平宗盛とともに鎌倉へ送られてきた。 『吾妻鏡』によると・・・ 盛国は命を助けられ岡崎義実に預けられていたが、日夜無言のまま法華経を唱えていたという。 そして、断食をしたまま、1186年(文治2年)7月25日に亡くなった(74歳)。 このことを聞いた源頼朝は、法華の持経者を死なせてしまったことを恥じたのだという。 |
| 平清盛は、平盛国邸で最期を迎えたのだという。 |
| 主馬盛久頸座〜鎌倉に残された親子の伝説〜(okadoのブログ) |

| 鎌倉市長谷1−7−2 江ノ電「由比ヶ浜駅」から |

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