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平清盛終焉推定地
〜平盛国邸跡〜

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平清盛終焉推定地


 京都駅の東、八条通から須原通に入った市営住宅の一角にある石碑。

 『吾妻鏡』によると・・・

 平清盛は、1181年(治承5年)閏2月4日、九条河原口の盛国邸で死去(享年64歳)。

 盛国邸とは、清盛の側近だった平盛国の屋敷のことと考えられているが、その正確な場所は不明。

 ただ、九条河原口ではなく八条河原口あったと考えられることから、この場所に石碑が建てられたのだという。





高倉天皇誕生地

 盛国邸では、1161年(応保元年)に清盛の義理の甥にあたる高倉天皇が誕生している。

 高倉天皇は後白河天皇の第七皇子。

 母は清盛の継室・平時子の妹・滋子

 1168年(仁安3年)、8歳で即位。

 1172年(承安2年)、清盛の娘・徳子を中宮とし、1180年(治承4年)、徳子が産んだ皇子(安徳天皇)に譲位。
 
 清盛が死去する2ヶ月ほど前の1181年(治承5年)1月14日、六波羅館の池殿で崩御。



六波羅館と鎌倉幕府の六波羅探題の跡
リンクボタン六波羅館跡の碑
(六波羅蜜寺)

 平家全盛の頃、六波羅蜜寺には一門の屋敷(六波羅館)が建ち並び、その数は5200余りに及んだのだという。





盛国邸は・・・
六波羅館と西八条第の中間にあった

 清盛終焉推定地(盛国邸)は、平家一門の六波羅館後白河法皇法住寺殿の南、清盛の邸宅だった西八条第の西にあたる。

 西八条第は、1166年(仁安元年)頃に八条壬生に造営された 広大な邸宅だったが、清盛の死の2日後に焼失。

 のちに再建されたが、1183年(寿永2年)、平家一門が都落ちする際に、六波羅館などとともに焼き払われたのだという。




平清盛終焉の地





平家滅亡と盛国

 清盛亡き後、平家一門は木曽義仲に攻められ、1183年(寿永2年)7月に都落ち。

 1184年(寿永3年)2月には、一ノ谷源頼朝が派遣した源範頼源義経の軍に敗れ、1185年(元暦2年)2月には義経屋島を奇襲されて敗走。

 同年3月に壇ノ浦で滅亡した。

 捕らえられた平盛国は、総大将の平宗盛とともに鎌倉に送られ、岡崎義実に預けられたが、1186年(文治2年)7月25日、自害している。



主馬盛久頸座
リンクボタン主馬盛久頸座
(鎌倉)

 主馬盛久頸座は、盛国の子盛久が処刑されそうになった地。










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