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京都:大谷本廟

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大谷本廟


 大谷本廟は浄土真宗の開いた親鸞の廟所。

 1262年(弘長2年)11月28日 に入滅した親鸞は、鳥辺野の南の延仁寺で火葬され、遺骨は鳥辺野北の大谷に納められた。

 1272年(文永9年)、娘の覚信尼が吉水の北辺(知恩院山門北側の崇泰院付近)に改葬。

 影像を安置した堂は、大谷影堂または大谷廟堂と呼ばれ、本願寺(西本願寺)の始まりの地となる。

 1603年(慶長8年)、知恩院の拡張造営に際して、親鸞が荼毘に付された地に隣接する現在地に廟堂を移転。

 以後、親鸞をはじめ本願寺の歴代宗主の廟所となっている。

 通称は西大谷。



崇泰院
崇泰院
(大谷廟堂跡)

 崇泰院は、親鸞の大谷廟堂があった地に建てられた知恩院の塔頭。





大谷本廟総門
総門

 1710年(宝永7年)の創建、1796年(寛政8年)に改築。

 「大谷本廟」の額は、1860年(万延元年)に第20世広如(こうにょ)が書いたもの。


大谷本廟鐘楼
鐘楼

大谷本廟二天門
鐘楼



大谷本廟仏殿
総門

 1661年(寛文元年)の創建。

 1867年(慶応3年)に二天門からの出火で焼失したが、1870年(明治3年)に再建。



大谷本廟明著堂
明著堂

 明著堂は親鸞の墓所(祖壇)の前にある拝堂。

 1709年(宝永6年)に第14世寂如(じゃくにょ)によって造営された内部に柱のない建物。

 寂如による「明著堂」の額が掲げられている。



大谷本廟親鸞像
親鸞像



大谷本廟親鸞像
覚信尼碑





西本願寺
リンクボタン本願寺
(西本願寺)

 本願寺(通称「西本願寺」)は、浄土真宗本願寺派の大本山。

 東山にあった親鸞の廟所を始まりとしている。



東本願寺
リンクボタン真宗本廟
(東本願寺)

 真宗本廟(通称「東本願寺」)は、徳川家康が教如に烏丸七条の土地を寄進したことで、本願寺から分立した浄土真宗大谷派の本山。









〜親鸞と鎌倉〜

 1207年(建永2年)、後鳥羽上皇によって越後国流罪となった親鸞は、赦免後の1214年(建保2年)、関東での布教のため越後国から信濃国の善光寺、上野国を経て常陸国へ向かったといわれている。

 東国での布教活動は20年間にわたって行われたといわれ、蓮如の孫顕誓(けんせい)が著した『反古裏書』には、常陸国下妻の三月寺小嶋に3年ばかり、稲田郷に10年ばかり滞在したのち、相模国足下郡江津の真楽寺や鎌倉に滞在したことが記されているらしい。



〜一切経の校合に参加?〜

  親鸞は、北条泰時の要請によって鎌倉に入り「一切経の校合」に参加したともいわれている。

 校合とは、書写したものに誤りがないか確認すること。

 『吾妻鏡』によると、一切経の書写は、1235年(文暦2年)2月の四代将軍藤原(九条)頼経の発願によって建立された明王院の上棟時と、1237年(嘉禎3年)7月の北条政子の十三回忌供養に際して行われている。

 後者の一切経は、1238年(嘉禎4年)7月11日、園城寺唐院灌頂堂に納められている。

 どちらの校合に関わった可能性があるのか・・・

 親鸞がいつ帰洛したのか定かではないが、東国での布教活動が1214年(建保2年)からの20年だったと考えると、明王院上棟にあわせて書写された一切経の校合に関与したのかもしれない。


真楽寺
リンクボタン真楽寺
(小田原)
成福寺
リンクボタン成福寺
(鎌倉)


 小田原の真楽寺は、東国で布教していた親鸞が足を運んだという寺。

 一切経の校合のために滞在していたのだとも・・・

 鎌倉の成福寺は、東国布教中の親鸞に帰依した北条泰時の子泰次が開いた寺といわれる。

 下総国の結城朝光や武蔵国の葛西清重も親鸞に帰依し、朝光は称名寺(結城市)を、清重は西光寺(東京葛飾区)を建立している。



〜常盤の真影〜

  1309年(延慶2年)、親鸞の孫の唯善(ゆいぜん・覚信尼の子)は、大谷本廟の親鸞の像と遺骨を持ち出して鎌倉の常盤に住んだのだという。

 唯善の庵は一向堂と呼ばれ、親鸞の像は「常盤の真影」と呼ばれてていたのだとか・・・。









大谷本廟
大谷本廟

京都市東山区五条橋東6−514

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市営バス、京阪バスで「五条坂」バス停下車すぐ



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