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浄妙山(じょうみょうやま)は、祇園祭の後祭に巡行する舁山の一つ。 御神体は、園城寺浄妙坊の僧兵・筒井浄妙と弟子の一来法師。 『平家物語』に描かれた宇治川の合戦(橋合戦)の一場面。 平家軍に追い詰められた浄妙の頭上を一来が 「悪しゅう候、御免あれ」 と飛び越えて敵に向かう様子を表しています。 そのため浄妙山は「悪しゅう候山」とも呼ばれています。 浄妙が着用している「黒韋威肩白胴丸」(くろかわおどしかたしろどうまる)は、室町時代の作で重要文化財。 |
橋合戦 |
1180年(治承4年)4月9日、以仁王が源頼政のすすめにより全国の源氏に平家打倒の令旨を発出。 しかし、5月の初旬には平家方に露見。 追われる身となった以仁王は、5月19日、園城寺に入って頼政と合流。 5月26日には、東大寺・興福寺のある南都へと向かいます。 しかし、夜間の行軍に疲れた以仁王が幾度も落馬したため、宇治橋の橋板を外し平等院で休息を取ることに。 平家軍に追いつかれて宇治川を挟んで矢戦となりますが・・・ 『平家物語』には、筒井浄妙と一来法師の奮戦が描かれています。 『平家物語』によると、一人橋の上に進み出た浄妙は、24本持っていた矢を次々に射て12人を射殺、11人に重傷を負わせます。 矢が残り1本となったところで弓を捨て、薙刀で5人を薙ぎ倒しますが、6人目で薙刀が折れたため、太刀を抜いて戦い8人を切伏せますが、9人目で太刀も折れてしまいます。 そこへ後方で戦っていた一来法師が浄妙の兜の端に手を置いて、「悪いな、浄妙房」と言って飛び越えていったのだとか。 間もなく一来は討死。 浄妙は平等院に戻り、傷の手当てをした後、阿弥陀仏と唱えながら奈良の方へ逃亡したのだといいます。 その後、源頼政は平等院で自害、以仁王は南都へと向かいますが、南山城の加幡河原で討たれています。 |
園城寺(三井寺)は、源頼義を始めとする河内源氏が信仰した天台寺門宗の総本山。 橋合戦後の8月17日、伊豆国で以仁王の令旨を受け取った源頼朝が挙兵。 12月11日、園城寺が頼朝に味方することを心配した平清盛は、五男重衡に遣わして園城寺を焼き払い、12月28日には南都を焼き討ちし、東大寺・興福寺が灰燼に帰しています。 |
平等院の塔頭最勝院には、以仁王を逃がすため平等院に篭って戦った源頼政の墓が建てられています。 |
南都へ向かった以仁王は、光明山寺の鳥居の前で討たれたのだと伝えられています。 高倉神社は以仁王を祀る社。 |
以仁王を祀る高倉神社に隣接地が以仁王の陵墓となっています。 |
以仁王の墓の南にある浄妙塚と呼ばれる墳墓は、筒井浄妙の墓とされています。 |
「祇園祭」は、7月1日から1ヵ月にわたって行われる八坂神社の祭礼。 7月1日の「吉符入」からはじまり、31日の八坂神社境内摂社・疫神社の「夏越祭」で幕を閉じます。 上賀茂神社と下鴨神社の葵祭 ・ 平安神宮の時代祭とともに京都三大祭の一つ。 |
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