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板額御前(はんがくごぜん)は、越後国の城資国の娘。 木曽義仲の妾巴御前とともに女武将として知られている。 生没年は不詳。 |
1201年(正治3年)、京都で兄の城長茂が源頼家追討の宣旨を求めて反乱を起こすと、それに呼応して越後国で甥の城資盛とともに反乱を起こした(建仁の乱)。 この時の板額御前の様子を『吾妻鏡』は・・・ 女性ではあっても、弓は百発百中の名手で、男武者を越える腕前。 結髪をしていない子のように髪をかき上げて巻き、鎧腹巻を着けて、やぐらの上にあがり、次々に矢を放ち、射られた者で死なぬ者はなかったと伝えている。 『北条九代記』は・・ ある者は胸を射抜かれ、またある者は兜の板を射通され、馬を射抜かれ、楯を砕かれたのだと伝えている。 板額御前の奮戦によって、佐々木盛綱を大将とする鎮圧軍は圧倒されてしまうが・・・ 信濃国の藤沢清親が城の背後の山から放った矢が板額御前の両ももを貫通し、倒れた板額御前は捕虜にされてしまう。 板額御前が捕えられたことで、反乱軍は士気を失い敗れたのだという。 |
6月28日、藤沢清親が捕虜にした板額御前を連れて鎌倉に到着。 矢疵はまだ治っていなかったため、いたわりながら連れてきたのだという。 そのことを聞いた源頼家がその姿を見てみたいと言い出したため、清親が御所へ連れて行った。 頼家は御簾の中から見たが・・・ 侍所に控えていた畠山重忠・小山朝政・和田義盛・比企能員・三浦義村らの座の中を通り、頼家の御簾の前に進み出た板額御前は、いっこうにへつらう顔つきはしなかったのだという。 その態度は、居並ぶ勇猛な武将と比べても匹敵するものだった。 ただ、顔は中国の陵薗の妾ほどに美人だったのだとか。 その翌日、甲斐源氏の一族の浅利義遠が、板額御前を預かりたいと申し出た。 頼家が 「この女は比べるものがないほどの国賊である。 それを望むとは何かわけがあるのだろう」 と問うと、義遠は、 「彼女との間に力強い男子を儲けて、朝廷や幕府に忠義を尽くさせたい」 と答えた。 頼家は、常人が望むようなことではないと笑いながら許可したのだという。 板額御前は、浅利義遠の妻となり、甲斐国で生涯を過ごしたのだと伝えられている。 参考までに、並び称される巴御前には、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を産んだという伝説が残されている・・・ |
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