北条時房の元服と北条政子が激怒した改名の逸話 |
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『吾妻鏡』によると・・・ 1189年(文治5年)4月18日、御所で北条時政の三男の元服式が行われた。 儀式は、大内義信・太田広綱・安田義定・源範頼・北条義時・新田義兼・千葉常胤・三浦義澄・三浦義連・畠山重忠・小山田重成・八田知家・足立遠元・工藤景光・梶原景時・和田義盛・土肥実平・岡崎義実・宇佐美助茂ら源家一門と幕府重鎮が参列する盛大なものだった。 源頼朝は加冠役に三浦義連を指名し、五郎時連と名づけられた。 義連が加冠役となった理由は、1181年(治承5年)6月に納涼のために行った三浦で、上総広常と岡崎義実が言い争った際、これを収めたのが義連だったから。 北条政子が可愛がっている子の将来を考えて、頼りとなる者を選んだのだという。 |
しかし、1202年(建仁2年)、時連は「時房」と改名する。 『吾妻鏡』・『北条九代記』によると・・・ この年の6月25日、源頼家の御所では、北条政子も出席した蹴鞠の会が催された。 夕刻まで蹴鞠が行われた後、酒宴となり、京の白拍子・微妙が舞い、平知康が鼓を打ったのだという。 宴たけなわとなり、時連に酒を勧めた知康。 「北条殿は、容姿もうるわしく、ふるまいも雅であるのに、時連という名は下劣です。 「連」の文字は、銭を貫く紐の意味でしょうか。 それとも歌の名人紀貫之にあやかろうとするものでしょうか。 いずれにしても適当な名ではないので、早く将軍に申し上げて改名した方がよろしいでしょう」 と言って笑ったのだという。 話を聞かされた時連は「連」の字を改めることにしたのだとか。 |
政子は平知康の言動を「理解に苦しむ愚かなこと」と激怒。 「その昔、木曽義仲が法住寺殿を襲撃した際、公卿や殿上人が恥をかいたのは、知康が後白河法皇に義仲追討の建議を奉ったから。 また、源義経に味方して将軍家を滅ぼそうと諮った際、先代(頼朝)は知康の職を解き、追放するように法皇に申し入れをしました。 それなのに、頼家はそれを忘れ、親しくそばに近づけたことは、亡き父の趣旨に反しています」と。 元服式での命名の経緯からすると、政子の怒りは当然のことかもしれない。 恐縮した知康は、しばらく家を出なかったのだとか・・・ 平知康は、鼓判官と呼ばれた武将。 『吾妻鏡』によると、1186年(文治2年)12月11日、弁解のため鎌倉へ下向したのだという。 1203年(建仁3年)、頼家が失脚し、伊豆の修禅寺に幽閉されると帰洛したのだか・・・ |
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