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1200年(正治2年)5月12日、源頼家は、「念仏の禁止令」を発出。 頼家に命じられた比企弥四郎は、念仏僧14名を捕らえて、政所の橋の傍らで袈裟を剥ぎ取り、順番に焼いていった。 橋には、大勢の見物人が集まり、皆頼家の愚行を非難したのだとか・・・ |
「政所の橋」は鎌倉十橋の一つ「筋違橋」のことらしい。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 僧の中に称念房という者がいて、黒衣を燃やす比企弥四郎にこう告げた。 「俗人の束帯と僧侶の袈裟とは同じ黒を用いることになっている。 どうして黒衣の着用を禁止されるのか。 総じて、今の世の政治のありさまは、 仏の道にも世の中の道理のいずれにもはずれたもの。 これは滅亡の元凶でしょう。 しかし、称念の袈裟は、正しい道を表した袈裟であるので、 焼くことはできないでしょう」 その言葉どおり、 称念の袈裟を焼くことはできず、もとのとおり袈裟を着込んだ称念は、どこへともなく消えていったのだという。 念仏禁止令は、その後すぐに廃止され、世間の笑いぐさになったとのだとか。 |
比企弥四郎は、比企能員の子時員(ときかず)のこと。 「十三人の合議制」に反発して頼家が指名した近習5人のうちの一人。 比企能員の変で討死。 |
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