鎌倉手帳(寺社散策)

三門梶原施餓鬼会
〜鎌倉:建長寺〜

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三門梶原施餓鬼会


 「施餓鬼会」とは、餓鬼道で苦しむ一切の衆生に食物を与えて供養する法会です。

 建長寺では、毎年7月15日、三門(山門)で「三門施餓鬼会」と梶原景時の亡霊を弔うための「梶原施餓鬼会」が行われます(午前8時から)。





三門梶原施餓鬼会


☆伝説!梶原施餓鬼☆

 建長寺の「三門梶原施餓鬼会」は、梶原景時の亡霊を弔うために行われます。

 建長寺が開かれて間もない7月15日、三門(山門)では通常どおりの施餓鬼会が行われていました。

 施餓鬼会が終了した直後、武者一騎が駆けつけます。

 しかし、施餓鬼会が終わったのを見た武者は残念そうに引き上げていったそうです。

 大覚禅師(蘭渓道隆)は、すぐに傍らにいた僧にその武者を追わせ、もう一度施餓鬼会を執り行いました。

 施餓鬼会が終わり大覚禅師が武者に問うたところ、「われは梶原景時の霊である」と答えて感謝の言葉を述べながら姿を消したといいます。

 それ以来、建長寺では、7月15日の午前中に「三門施餓鬼」を、午後に「梶原施餓鬼」を執り行ってきたといいます。


三門梶原施餓鬼会


 今日では、午前8時に国宝の梵鐘が撞かれ、本山、近在末寺の僧侶が集まって、「三門施餓鬼」と「梶原施餓鬼」が続けて行われています。

 「梶原施餓鬼会」で唱えられるのは、蘭渓道隆が宋より持参したという梵語の『般若心経』(梵語心経)。  







〜梶原景時〜

 梶原景時は、1180年(治承4年)源頼朝挙兵すると平氏方についたが、石橋山の戦いで敗れ山中に逃げた頼朝を助けたといわれ、鎌倉幕府では侍所次官の地位に就いた(参考:しとどの窟)。

 その一方で、讒言者として恐れられ、上総介広常源義経も景時の讒言によって命を奪われたという。


梶原景時像
梶原景時像
万福寺


 1198年(建久9年)12月、相模川の橋供養に出掛けた頼朝は、その帰路落馬し、翌年正月、それが原因となって亡くなった(参考:源頼朝落馬の地)。

 最大の後ろ盾を失った景時は、結城朝光を讒言したとして御家人66人の糾弾を受けることになる。

 本当に讒言があったのかどうか、他に理由があるのか、といったことは不明だが、この事件によって景時は鎌倉を追放された。

 そして、1200年(正治2年)正月、上洛途中の駿河で討死している。

 頼朝が亡くなってちょうど1年目のことだった。

 (参考:梶原景時の変 梶原景時の追放 梶原景時の墓



三門梶原施餓鬼会


 仏教の世界では、人は死ぬと、その生前の行いによって、6つの世界に振り分けられるといわれています。

 その世界とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の6つの道です。

 このうち「餓鬼」は、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい、餓えと渇きに悩まされるといわれています。

 「施餓鬼」は、その「餓鬼」を救うために行われます。


三門梶原施餓鬼会







三門梶原施餓鬼会
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鎌倉市山ノ内8
0467(22)0981

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