鎌倉手帳(寺社散策)

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梶原景時館址
(寒川町の遺跡)

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梶原景時館址


 梶原景時は、1180年(治承4年)の石橋山の戦いで平家方でありながら源頼朝の命を救ったと伝えられ、頼朝の鎌倉体制を固めるための中心人物として活躍した。

 相模国一宮(現在の寒川町)を所領とし、「梶原景時館址」の石碑が建てられている場所は、物見のあった所といわれている。



天満宮
天満宮

 石碑の奥にある天満宮の祠は、梶原氏の風雅をたたえ、里人によって創建されたと伝えられている。





寒川神社一の鳥居
リンクボタン寒川神社

 一宮という地名は、相模国一之宮寒川神社が鎮座していることによる。









梶原景時像
梶原景時像
(東京大田区:万福寺蔵)

 頼朝亡き後の1199年(正治元年)11月、景時は、結城朝光を讒言したことがきっかけとなり、御家人66人の弾劾によって鎌倉を追放された。

 一族とともに一宮に退いた景時は、城郭を構え鎌倉幕府に抵抗する姿勢を見せていたが、翌年正月には、上洛するために密かに一宮を発った。

 しかし、駿河国清見関で在地武士と合戦となり、一族ととともに討死。

 『吾妻鏡』では、景時の上洛の目的を、「鎌倉幕府への謀反で、武田有義を将軍に据えようと考えていた」と伝えているようであるが定かではない。



梶原山
リンクボタン梶原景時終焉の地
(静岡市:梶原山)


梶原景時の変

梶原景時・景季の最期





梶原氏一族郎党の墓
梶原氏一族郎党(七士)の墓

 「梶原景時館址」の墓石群。

 梶原景時一族郎党を、一宮館で留守をしていた家族、家臣が弔ったものと伝えられている。

 また・・・

 景時の夫人を守って信州に逃れていた家臣七人は、世情が変わったのみて、鎌倉に梶原氏の復権・所領安堵を求めるが、許されることはなく、七士はその場で自害して果てたのだという。

 この墓は、その七士を祀ったものともいわれている。





〜頼朝を助けた景時〜
しとどの窟
リンクボタンしとどの窟
(湯河原町)
梶原太刀洗水
リンクボタン梶原太刀洗水
(鎌倉)

 しとどの窟は、石橋山の戦いで敗れた源頼朝が隠れ潜んでいたと伝えられる巌窟。

 当時平家方にあった梶原景時は、頼朝の所在を知りながら、見逃したのだという。

 梶原太刀洗水は、景時が頼朝の命で上総広常を暗殺した際、太刀の血を洗い流した水と伝えられている。



〜景時の菩提寺〜
万福寺
リンクボタン万福寺
梶原景時の墓
リンクボタン梶原景時の墓
(東京大田区)



〜梶原氏発祥地〜
梶原景時の墓
リンクボタン梶原景時の墓
御霊神社
リンクボタン御霊神社
(鎌倉)



リンクボタン梶原稲荷神社(品川区)

リンクボタン伝説!逆櫓の論争
(屋島の戦い)

リンクボタン義経と景時の先陣をめぐる争い
(壇ノ浦の戦い)

リンクボタン梶原景時の変

リンクボタン梶原景時の追放





〜鎌倉の景時邸〜

梶原景時邸跡
リンクボタン梶原景時邸跡

 鎌倉の梶原景時の屋敷は、十二所にあったといわれている。

 屋敷内にあったという大行寺(現在の大巧寺)では、源頼朝が軍評定を行ったのだと伝えられている。

 景時が鎌倉を追放されると屋敷は解体され、永福寺の僧の住居に使用されたと伝えられている。





〜景時の供養〜

三門梶原施餓鬼会
リンクボタン梶原三門施餓鬼会

 建長寺では毎年7月15日、梶原景時のための施餓鬼会が行われている。








歴史めぐり源頼朝




梶原景時館址

神奈川県高座郡寒川町一之宮8−6

JR相模線「寒川駅」から徒歩15分



寒川神社と梶原景時館址
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。





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