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| 鎌倉の寺院・神社に関する記述について,最も適当なものを 1 〜 4 から選びなさい。 |
| (36) | 戦没者の菩提を弔うために,円覚寺が建立される要因となった戦いは何か。 |
| 1 奥州合戦 2 承久の乱 3 宝治合戦 4 文永・弘安の役 |
| 円覚寺を建立したのは八代執権北条時宗。 時宗の時代、二度にわたる蒙古の襲来(元寇)がありました。 元寇とは、中国大陸を征圧したモンゴル帝国(元)の皇帝クビライによる日本侵攻のことで、1274年(文永11年)の「文永の役」と、1281年(弘安4年)の「弘安の役」のこと。 |


| (37) | 明月院の開山堂横のやぐらの中央に建てられた宝篋印塔は,だれの墓といわれているか。 |
| 1 足利家時 2 上杉禅秀 3 足利氏満 4 上杉憲方 |
| 明月院は、上杉憲方が中興した禅興寺の支院。 開山堂横にある「やぐら」は「明月院やぐら」。 |
| (38) | 壽福寺の墓地にある五輪塔は,源実朝とだれの墓と伝えられているか。 |
| 1 北条政子 2 北条時政 3 源頼家 4 北条泰時 |
| 壽福寺は、北条政子創建といわれている寺。 ただ・・・ 源頼家の廟所を載せた境内絵図なども発見されていて、頼家の創建とする説も。 さらに、壽福寺に残されている源実朝の位牌には、「当寺大檀那」の文字があるのだとか。 |
| (39) | 浄光明寺に祀られている地蔵菩薩立像は,通称では何と呼ばれているか。 |
| 1 矢拾地蔵 2 黒地蔵 3 とげぬき地蔵 4 子育て地蔵 |
| 浄光明寺の地蔵菩薩立像は、足利直義の念持仏といわれています。 合戦で矢が尽きてしまった直義に落ちている矢を拾い集めてきてくれた地蔵尊なのだとか。 そのため矢拾地蔵と呼ばれています。 |

| (40) | 次のうち,覚園寺の境内にあるものはどれか。 |
| 1 若狭局を祀る蛇苦止堂 2 鎌倉最大の茅葺き屋根の薬師堂 3 瘡守稲荷を祀る稲荷堂 4 鎌倉最大最古の石造庚申塔 |
| 覚園寺の本尊は薬師如来。 蛇苦止堂は妙本寺、瘡守稲荷が祀られているのは上行寺、鎌倉最大の庚申塔は八雲神社(山ノ内)。 |
| (41) | 観音様のお告げを受けた光明皇后が本堂を建立したと伝わる寺院はどこか。 |
| 1 浄妙寺 2 長谷寺 3 極楽寺 4 杉本寺 |
| 杉本寺の本堂は、観音菩薩のお告げにより光明皇后が藤原房前と行基に建立させたのだと伝えられています。 光明皇后は、藤原不比等の娘で聖武天皇の妃となりました。 房前は光明皇后の兄。 杉本寺と同じ坂東札所の長谷寺は、房前の開基といわれています。 行基は、東大寺の大仏(奈良の大仏)建立の勧進を任された僧。 東大寺は聖武天皇と光明皇后が夭折した皇子の追善のために建てた寺が始まり。 |
| (42) | 材木座にある補陀洛寺の開山で,平家追討に決起するよう源頼朝を説いた僧侶はだれか。 |
| 1 西行 2 親鸞 3 忍性 4 文覚 |
| 補陀洛寺は、源頼朝の祈願所として建立されたと伝えられている寺。 開山は文覚。 文覚は、神護寺再興を強訴したことで後白河法皇の怒りを買い、伊豆国へ流されますが・・・ その時、まだ伊豆の流人で蛭ヶ小島で暮していたという源頼朝に挙兵を促したのだと伝えられています。 |
| (43) | 開山に然阿良忠(記主禅師)を招き,鎌倉幕府4代執権北条経時が開いた浄土宗の大本山の寺院はどこか。 |
| 1 光明寺 2 高徳院 3 長谷寺 4 英勝寺 |
| 四代執権北条経時が然阿良忠を招いて開いたのは光明寺。 良忠は浄土宗第三祖。 経時の帰依を受けて佐助ヶ谷に建てられた蓮華寺の開山となりました。 諸説あるようですが、光明寺は蓮華寺を始まりとするとされています。 |
| (44) | 光則寺の裏山には,開山が幽閉された土牢と「土牢御書」の石碑が今も残されている。この開山とはだれのことか。 |
| 1 日蓮 2 日詔 3 日範 4 日朗 |
| 土牢御書は、日蓮が弟子の日朗に宛てた手紙。 1271年(文永8年)9月12日、日蓮は幕府や諸宗を批判したことで、平頼綱(北条時宗の執事)に捕えられてしまいます(龍ノ口法難)。 弟子の日朗も捕らえられ、宿谷光則邸(現在の光則寺)の土牢に幽閉されました。 日蓮は佐渡流罪となりますが、土牢御書には「牢を出たら佐渡に遊びに来るように」と書かれていて、日朗は、日蓮の佐渡流罪中、8度にわたって佐渡を訪れたのだといいます。 |


| (45) | 弁慶が書いたと伝えられる「腰越状」の下書きが残されている寺院はどこか。 |
| 1 霊光寺 2 浄泉寺 3 満福寺 4 本成寺 |
| 「腰越状」は、源頼朝の怒りを買ってしまった源義経が弁明のために書いた手紙。 1185年(元暦2年)5月、壇ノ浦で平家を滅ぼした義経は、捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して鎌倉へ凱旋しようとしますが、鎌倉に入ることはできませんでした。 義経は腰越の満福寺に留まり、大江広元を通じて頼朝に許しを得ようと「腰越状」を書いたのだと伝えられています。 |
| (46) | 鎌倉三名鐘の一つで,市内最古のものとされる梵鐘はどこの寺院のものか。 |
| 1 建長寺 2 長谷寺 3 円覚寺 4 常楽寺 |
| 鎌倉三名鐘は、建長寺の梵鐘・円覚寺の梵鐘(洪鐘)・常楽寺の梵鐘。 建長寺の梵鐘は、1255年(建長7年)に物部重光が鋳造しました。 五代執権北条時頼が大旦那となり、開山の蘭渓道隆が銘文を撰しています。 円覚寺の梵鐘(洪鐘)は、1301年(正安3年)に物部国光が鋳造しました。 大旦那は九代執権北条貞時で、銘文は西澗子曇(せいかんすどん)が撰しています。 常楽寺の梵鐘は一番古く、1248年(宝治2年)に北条時頼が祖父泰時の供養のために鋳造したもの(鎌倉国宝館に寄託)。 長谷寺の観音ミュージアムに収蔵されている梵鐘を含めると鎌倉四古鐘となるようです。 |
| (47) | 鎌倉七福神のうち,妙隆寺に祀られているのは何か。 |
| 1 福禄寿 2 寿老人 3 大黒天 4 恵比寿 |
| 恵比寿(夷神)は本覚寺 大黒天は長谷寺 毘沙門天は宝戒寺 弁財天は鶴岡八幡宮 布袋尊は浄智寺 福禄寿は坂ノ下の御霊神社 寿老人は妙隆寺 |
| (48) | 鎌倉十三仏詣の霊場のうち,初七日の導師である不動明王を祀っているのはどこか。 |
| 1 明王院 2 浄妙寺 3 浄智寺 4 海蔵寺 |
| 十三仏信仰では、人が亡くなるとまず最初の裁判官である「秦広王」(しんこうおう)の裁きを受けます。 生前の行いによって三途の川を渡る場所が定められ、善人のみが橋を渡ることができるのだとか。 秦広王は不動明王の化身。 鎌倉で不動明王といえば明王院。 |


| (49) | 鶴岡八幡宮本宮の掲額の「八」の字は,神聖な神の使いとされている動物の形を使って表されているが,その動物は何か。 |
| 1 ツル 2 ヘビ 3 ハト 4 キツネ |
| 鶴岡八幡宮は八幡神(応神天皇)を祀る社。 八幡神の使いは鳩。 本宮楼門の額の「八」の字は、神聖な神の使いとされている二羽の鳩で表現されています。 石清水八幡宮の一の鳥居の「八幡宮」の額にも二羽の鳩。 源氏の白鳩は、壇ノ浦の戦いで平家一門が入水したことを知らせたのだとか・・・ |
| (50) | 本殿が鎌倉最古の神社建築であり,国指定の重要文化財である神社はどこか。 |
| 1 鶴岡八幡宮 2 荏柄天神社 3 鎌倉宮 4 巽神社 |
| 荏柄天神社の本殿は鎌倉時代後期の建築物で、鶴岡八幡宮の若宮の本殿が移築されたのだと伝えられています。 |
| (51) | 別名「相馬天王」ともいわれる扇ヶ谷の鎮守は何か。 |
| 1 蛭子神社 2 八坂大神 3 甘縄神明神社 4 熊野新宮 |
| 扇ヶ谷の鎮守は八坂大神。 「天王」とは祇園精舎の守護神・牛頭天王のこと。 八坂大神は、相馬次郎師常が自邸の守り神として勧請したのが始まりで、牛頭天王を祀る社だったことから「相馬天王」と呼ばれました。 八坂大神の六角神輿は、八坂祇園社と呼ばれた京都の八坂神社の六角神輿を伝承するものです。 |
| (52) | 巽神社はどの寺の鎮守として崇められているか。 |
| 1 英勝寺 2 海蔵寺 3 壽福寺 4 浄光明寺 |
| 巽神社は、壽福寺の巽(南東)の方角にある社。 『新編相模国風土記稿』には、「元は壽福寺の鎮守だったが、今は浄光明寺持」と記されているようです。 手洗石と石灯篭は、鶴岡八幡宮の境内にあったものらしい。 |
| (53) | 銭洗弁財天宇賀福神社の本宮の祭神は何か。 |
| 1 坂上田村麻呂 2 比売神 3 弁財天 4 市杵島姫命 |
| 銭洗弁財天宇賀福神社は、源頼朝が宇賀福神を祀ったことに始まる社。 宇賀福神を祀る多くの神社は、明治の神仏分離によって、市杵島姫命を祀る神社となりました。 銭洗弁財天宇賀福神社の本宮の祭神も市杵島姫命。 ただ、奥宮は弁財天(宇賀神)を祀っています。 |
| 銭洗弁財天の宇賀神(弁財天)と佐助稲荷の稲荷神は同じ神? |
| (54) | 後醍醐天皇に仕え,討幕を企て葛原ヶ岡で処刑された公家で,明治時代に建立された葛原岡神社の祭神として祀られた人物はだれか。 |
| 1 日野俊基 2 日野資朝 3 北畠具行 4 児島高徳 |
| 1324年(正中元年)、鎌倉幕府に反感を抱いていた後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、後醍醐天皇の側近日野資朝と日野俊基が六波羅探題に捕らえられ、鎌倉へ送られています(正中の変)。 このときは、資朝が佐渡流罪、俊基は無罪放免となりました。 後醍醐天皇はその後も倒幕を計画します。 1330年(元徳2年)頃になると、寺社の武力を味方に付けるため、東大寺、興福寺、比叡山などに参詣。 しかし、その計画も翌1331年(元弘元年)に発覚。 円観・文観・忠円が六波羅探題に捕らえられ、鎌倉へ送られました(元弘の変)。 拷問にかけられた文観は、後醍醐天皇の命により、幕府調伏の祈祷を行っていたことを白状し、忠円も比叡山を味方に付けようとしていたことなどを白状したといいます。 文観は硫黄島、忠円は越後、円観は陸奥へ流罪となりました。 1332年(元弘2年)には、佐渡流罪となっていた日野資朝が処刑され、日野俊基が葛原ヶ岡で処刑されています。 後醍醐天皇は隠岐流罪となりました。 明治時代に創建された葛原岡神社は日野俊基を祀る社。 元弘の変で捕らえられた円観は、鎌倉幕府滅亡後に建てられた宝戒寺を開いています。 |
| (55) | 白山神社が建立されるきっかけとなった,源頼朝が鞍馬寺に詣でたときに賜ったとされる行基作と伝えられる像は何か。 |
| 1 福禄寿像 2 毘沙門天像 3 弁財天像 4 大黒天像 |
| 白山神社は、源頼朝が京都の鞍馬寺から賜った毘沙門天を祀る毘沙門堂を始まりとしています。 1月8日の「大注連祭」では、白山神社の守護虫とされるハガチ(百足(ムカデ))を模した6メートルもの注連縄が奉納されます。 |
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