鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉殿の13人 特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編



時政・政子・義時の時代その2
〜「鎌倉殿の13人」鎌倉編〜

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★実朝の暗殺と戌神

鶴岡八幡宮
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 1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式に出席した源実朝が甥の公暁に暗殺されました(源実朝の暗殺)。

 剣持役だった源仲章も殺害されました。

 暗殺者の公暁は、乳母夫の三浦義村邸へと向かいますが、義村が差し向けた長尾定景によって討ち取られたのだと伝えられています。

 実朝の遺体は勝長寿院に葬られますが、首は公暁が持ち去っていたため、拝賀式の前に宮内公氏に与えられていた髪の毛が首の代わりに葬られたのだといいます。


覚園寺
リンクボタン覚園寺

 実朝が暗殺される前年、北条義時は大倉薬師堂を建立。

 運慶の薬師如来と十二神将が安置されました。

 義時は実朝の右大臣拝賀の式に剣持ちとして出席する予定でしたが、十二神将のうちの戌神が現れて救われたのだと伝えられています。

 覚園寺は大倉薬師堂を前身とする寺。


辻の薬師堂
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 辻の薬師堂に安置されていた戌神は、義時を救ったという大倉薬師堂の運慶作の戌神の模刻といわれ、現在は鎌倉国宝館に寄託されています。


龍宝寺山門
リンクボタン龍寳寺

 龍寳寺のある谷は「七騎谷」と呼ばれます。

 公暁が持っていた実朝の首は、七騎の武士が持ち去り、追手から逃れるため、この谷に隠れていたのだとか・・・

 龍寳寺には実朝の位牌が安置されています。



「鎌倉殿の13人」   案内所

 大倉薬師堂の諸像を像立した運慶は奈良仏師。

 奈良東大寺金剛力士像で知られています。

 残念ながら鎌倉には運慶の真作は伝えられていませんが、北条時政願成就院(伊豆の国市)に5体、和田義盛浄楽寺(横須賀市)に5体の運慶の真作が伝えられています。

 称名寺(横浜市金沢区)の塔頭光明院大威徳明王像も運慶の真作。

 京都東寺講堂の模刻とされ、源実朝の養育係を務めた大弐局の発願と判明しています。



「鎌倉殿の13人」   案内所

 源実朝の首は三浦義村の家臣武常晴が拾い上げ、波多野の地に葬ったという伝承があります。

 秦野市の金剛寺は、実朝の首が埋葬されたことに始まる寺と伝えられ、実朝の首塚があります。

 鎌倉国宝館に寄託されている木製五輪塔は、実朝の首塚に建てられたものと伝えられています。



★三寅の下向

明王院
リンクボタン明王院

 源実朝が暗殺された年の7月19日、左大臣九条道家の子三寅(のちの四代将軍藤原(九条)頼経)が鎌倉へ下ってきました。

 三寅は2歳。

 母は、西園寺公経の娘倫子(りんし)。

 倫子は、源頼朝の姉妹坊門姫の孫。

 北条政子が頼朝の縁を大事にして、その後継ぎとして鎌倉へ下向するよう願ったのだといいます。

 幼い鎌倉殿の後見役となった政子は、尼将軍と呼ばれるようになります。

 明王院は、のちに藤原(九条)頼経が創建した寺。



★承久の乱

鶴岡八幡宮今宮
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 1221年(承久3年)5月14日、後鳥羽上皇は御所に軍隊を集め、15日には呼び出しに応じなかった京都守護の伊賀光季を誅殺し、北条義時追討の院宣を発しました(承久の乱)。

 これを受けて北条政子は「故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い・・・」と説いて御家人の結束を固めたのだと伝えられています。

 幕府軍は、5月22日から東海道・東山道・北陸道の三道に分けて総勢19万騎で京都に向けて進軍を開始。

 各所で朝廷軍を撃破し、6月15日、京市中に入って反乱を鎮圧しました。

 鶴岡八幡宮今宮は、乱後、配流となった後鳥羽・土御門・順徳の三天皇を祀っています。



「鎌倉殿の13人」   案内所

 京都の城南宮は流鏑馬発祥の地といわれ、後鳥羽上皇は城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を募ったのだと伝えられています。

 承久の乱後、京都には朝廷の動きを監視するための六波羅探題が設置され、北条泰時北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留することになります。

 六波羅蜜寺六波羅探題府址の碑が建てられています。






★北条義時の死

北条義時法華堂跡
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 1224年(貞応3年)6月13日、北条義時が急死。

 源頼朝の法華堂の東の山上に葬られられました。



「鎌倉殿の13人」   案内所

 北条義時の死後、北条政子の命により北条泰時が三代執権に就任しますが、義時の後妻の伊賀の方は、兄伊賀光宗と謀反を企てたとして伊豆国に追放されています(伊賀氏の変)。

 ただ、この事件は政子のでっちあげともいわれ、泰時は謀反を否定しています。

 泰時は、伊豆の国市の北條寺に義時と伊賀の方の墓を建てています。



★大江広元の死

大江稲荷
リンクボタン大江稲荷

 1225年(嘉禄元年)6月10日、源頼朝の時代から幕府を支え続けた大江広元が死去(享年78)。

 大江稲荷は広元を祀る社。

 初午祭では大江広元木像を祀り、明王院の住職によって読経供養が行われます。


伝大江広元墓
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 明王院の裏山にある層塔は大江広元の墓と伝えられています。


大江広元墓
リンクボタン大江広元墓
(法華堂跡)

 法華堂跡のやぐらにも五輪塔が置かれていますが、江戸時代に長州藩によって建てられたものだといいます。

 三つ並ぶやぐらのうち、中央が大江広元、左が広元の子季光、右が源頼朝の御落胤ともいわれる島津忠久のもの。



「鎌倉殿の13人」   案内所

 大江広元の四男季光は、広元の所領のうち毛利荘を相続したことから「毛利」を名乗りました。

 厚木市の三島神社が鎮座する場所は、季光の屋敷跡の一画と伝えられ、境内には「毛利氏発祥の地」碑が建てられています。

 戦国時代に中国地方を制覇した毛利元就は、季光の子孫。



★北条政子の死

北条政子の五輪塔
リンクボタン北条政子の五輪塔
(壽福寺)

 1225年(嘉禄元年)7月11日、源頼朝の妻として、頼家実朝の母として、四代将軍藤原(九条)頼経の後見役として、鎌倉幕府を支えた北条政子が死去(享年69)。

 勝長寿院で荼毘に付され葬られたと伝えられています。

 政子創建という壽福寺には、政子のものと伝わる五輪塔があります。


北条政子の宝篋印塔
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(安養院)

 安養院には、政子のものと伝わる宝篋印塔があります。

 政子の法名は「安養院殿」。


安養院
リンクボタン安養院

 政子は、亡くなる年に頼朝の菩提を弔うための長楽寺を建てています。

 安養院は、その長楽寺を前身とする寺。

 千手観音像は、頼朝に仕えた田代信綱の守り本尊の観音像が納められたものと伝えられ、田代観音と呼ばれています。



「鎌倉殿の13人」   案内所

鉄ノ井
リンクボタン鉄ノ井

 鉄ノ井は、北条政子が創建したという新清水寺(廃寺)の観音像の頭が掘り出されたという井戸。

 江戸時代まで観音像の頭は井戸の前にあった鉄観音堂に安置されていましたが、明治の神仏分離で鉄観音堂は廃され、現在は東京人形町の大観音寺の本尊として信仰されています。



★源頼朝像

源頼朝像
リンクボタン源頼朝像
(源氏山公園)

 源氏山公園源頼朝像は、頼朝の鎌倉入り800年を記念して建てられたもの。

 源氏山は、源義家が後三年の役に出陣の際、源氏の白旗を立てて戦勝を祈願したことから付けられた名だといわれ、「旗立山」とも呼ばれます。




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北条の時代その1


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