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| 鎌倉の歴史・旧跡に関する記述について,最も適当なものを 1 〜 4 から選びなさい。 |
| (1) | 1081年(永保元),由比若宮の社殿を修理した人物はだれか。 |
| 1 源頼信 2 源頼義 3 源義家 4 源頼光 |
| 源頼朝の先祖頼義は、平直方から譲り受けた鎌倉の地に石清水八幡宮の神霊を迎えました。 それが現在の鶴岡八幡宮の前身となる由比若宮。 頼義の子義家は、社殿の修理を行ったのだといいます。 由比若宮には「源義家・旗立の松」があります。 |
| 武家の都・鎌倉を創った源頼朝は清和源氏の一流の河内源氏。 源頼信は河内源氏の祖。 頼信→頼義→義家と続き、頼朝は七代目。 源頼光は頼信の兄で摂津源氏の祖。 頼朝に源氏再興の挙兵を促す以仁王の令旨は、頼光の子孫頼政が以仁王に進言したもの。 六孫王神社は清和源氏の祖源基経を祀る社。 |
| (2) | 2代将軍の外戚となり,権力を振るったが,北条氏討伐の企てが北条政子に知られ,名越の北条邸で謀殺された人物はだれか。 |
| 1 安達盛長 2 三浦義澄 3 阿野全成 4 比企能員 |
| 1199年(建久10年)1月13に源頼朝が死去すると・・・ 1200年(正治2年)正月20日に弾劾にあって鎌倉を追放された梶原景時が駿河国で滅ぼされ、1203年(建仁3年)6月23日には頼朝の異母弟阿野全成が謀反の疑いで捕らえられ下野国で八田知家に誅殺されました。 そして、1203年(建仁3年)9月2日、源頼家の乳母夫比企能員が北条時政に暗殺され、比企一族も北条義時らに攻められて滅亡(比企能員の変)。 能員と頼家の北条氏打倒の密儀を北条政子が聞いていたためなのだとか。 9月29日には頼家も修禅寺に幽閉され、翌年7月18日に暗殺されています。 |
(修禅寺) |



| (3) | 1213年(建保元),北条義時の挑発によって兵を挙げ,一族とともに由比ヶ浜で滅亡した人物はだれか。 |
| 1 三浦義村 2 和田義盛 3 畠山重忠 4 梶原景時 |
| 1213年(建暦3年)に起こったのは和田合戦。 この年の2月の泉親衡の謀反で、和田義盛の甥胤長が処罰されたことで、義盛と北条義時との関係が悪化。 義盛は三浦義村や横山氏を味方につけて、5月2日、北条氏打倒の兵を挙げますが・・・ 義村に裏切られるなど兵力不足の義盛は、源実朝を擁して兵を集めた義時に敗れ、5月3日、由比ヶ浜で最期を遂げました。 由比ヶ浜の和田塚は、和田合戦の戦死者を葬った所と伝えられています。 |
| 『吾妻鏡』によると、源実朝の夢に駿河国の建穂寺の鎮守・馬鳴大明神が現れ、和田合戦が起こることを告げていたのだとか。 |
| 京都の祇園祭の前祭巡行の先頭を行く長刀鉾の御神体は、北条義時打倒を企てた和泉小次郎親衡(泉親衡)。 |

| (4) | 源頼朝以来の先例や武家社会の慣習を基とした日本最初の武家成文法である御成敗式目 (貞永式目)を定めた人物はだれか。 |
| 1 北条泰時 2 北条義時 3 北条経時 4 北条時頼 |
| 三代執権北条泰時の時代には、承久の乱の勝利によって幕府の支配領域が拡大した一方で、公家と武士や御家人同士の土地争いなどの揉め事が多くなっていました。 執権就任以来、毎朝、古代の律令に目を通すことを日課としていた泰時は、1232年(貞永元年)8月10日、鎌倉幕府の基本法となる「御成敗式目」(貞永式目)を制定。 全51条からなるもので、51条という数は17の3倍で、聖徳太子の憲法17条に由来する数なのだとか。 |
| 「御成敗式目」は、泰時が帰依した栂尾高山寺の明恵の思想が強く影響しているともいわれています。 |
| (5) | 北条氏(得宗)の権力をさらに強固にするために,5代執権北条時頼が三浦泰村とその一族を滅ぼしたできごとを何というか。 |
| 1 霜月騒動 2 宝治合戦 3 承久の乱 4 弘安の役 |
| 北条時頼が三浦泰村を滅ぼしたのは1247年(宝治元年)。 宝治合戦と呼ばれています。 承久の乱は、後鳥羽上皇が皇権回復するため、二代執権北条義時に対して挙兵し、鎮圧された兵乱(1221年(承久3年))。 弘安の役は二度目の蒙古襲来(1281年(弘安4年))。 霜月騒動は、八代執権北条時宗亡き後に政治の実権を握った安達泰盛が滅ぼされた事件(1285年(弘安8年))。 |

| (6) | 1335年(建武2),北条高時の子である時行が鎌倉政権復活を図って挙兵し,足利直義を破って一時的に鎌倉を支配下に置いたできごとを何というか。 |
| 1 中先代の乱 2 正中の変 3 承久の乱 4 霜月騒動 |
| 1333年(元弘3年)に鎌倉幕府が滅亡した後、最後の得宗北条高時の遺児時行は、諏訪盛高(頼重)に連れられ信濃に逃れます。 そして、1335年(建武2年)7月、信濃で挙兵して鎌倉に攻め込みました(中先代の乱)。 当時の鎌倉は、足利尊氏の嫡子義詮が治め、尊氏の弟直義が成良親王を奉じて下向していましたが、時行に攻められ敗走。 この反乱で東光寺(鎌倉宮)に幽閉されていた護良親王が殺害されています。 正中の変は後醍醐天皇の倒幕計画。 |
| (7) | 1561年(永禄4)に関東管領職を鶴岡八幡宮寺の神前で譲られた戦国武将はだれか。 |
| 1 今川義元 2 北条氏康 3 長尾景虎 4 武田信玄 |
| 1561年(永禄4年)、上杉謙信(長尾景虎)は、九万を超える軍勢を擁して小田原の北条氏康を攻めました。 小田原城を包囲しますが、氏康の背後で武田信玄が軍事行動を開始したことから鎌倉へ撤退。 ただ、謙信が越後から出てきた真の目的は、関東管領職を相続し、鶴岡八幡宮を参拝して「拝賀の儀」を行うことだったらしい。 |

| (8) | 1674年(延宝2)に徳川光圀が鎌倉入りした際に宿舎として利用した寺院はどこか。 |
| 1 浄妙寺 2 薬王寺 3 壽福寺 4 英勝寺 |
| 徳川光圀は水戸藩主。 水戸藩と関係の深い寺は、「水戸御殿」と呼ばれた英勝寺。 1674年(延宝2年)、鎌倉を訪れて名所・旧蹟を巡遊した光圀は、この時の調査を基に『新編鎌倉志』を編纂させています。 |
| (9) | 明治時代に,「鎌倉は保養地として最適な地である」と紹介した人物はだれか。 |
| 1 北里柴三郎 2 長与専斎 3 ロベルト・コッホ 4 エルウィン・ベルツ |
| 1880年(明治13年)、ドイツ人医師のエルウィン・ベルツは、七里ヶ浜を結核療養の最適地として紹介しました。 ベルツは、日光浴で健康増進を図る海水浴を薦めたのだといいます。 1884年(明治17年)、医学者長与専斎は鎌倉の海を「海水浴に最適の地」と紹介し、由比ヶ浜に海水浴場が開かれました。 |
| (10) | 1889年(明治22)のできごとで,鎌倉が保養地・別荘地としてさらに発展するきっかけとなったのは何か。 |
| 1 | 横須賀線の大船―横須賀間開通 |
| 2 | 江ノ島電鉄の全線開通 |
| 3 | 自動車専用道路の大船―片瀬間開通 |
| 4 | 湘南有料道路(現国道134号線)の開通 |
| 1889年(明治22年)、東海道線の支線として横須賀線が敷かれ、同年、鎌倉・逗子・横須賀の各駅が開業しています。 江ノ電の全線開通は、1910年(明治43年)。 大船−江の島間を結ぶ日本最初の自動車専用道路が開通したのは、1930年(昭和5年)。 湘南有料道路が存在したのは、1956年(昭和31年)から1986年(昭和61年)まで。 |
| (11) | 由比ヶ浜は鎌倉時代に何と呼ばれていたか。 |
| 1 西浜 2 東浜 3 上浜 4 前浜 |
| 由比ヶ浜は、鶴岡八幡宮の前の浜という意味から「前浜」と呼ばれていました。 |
| (12) | 鎌倉の各地に残る「やぐら」とは何か。 |
| 1 | 敵の襲来を見張るための物見の塔 |
| 2 | 予備の生活用具や武具をしまっておくための倉庫 |
| 3 | 丘陵の山腹を穿って造られた仏堂的横穴墳墓 |
| 4 | 敵の襲来時や災害時の避難場所 |
| 「やぐら」は、鎌倉を中心として点在する墳墓。 鎌倉時代の武士などの埋葬は、法華堂と呼ばれる堂に葬るという方法でしたが、三方を山で囲まれた鎌倉は平地が少なく土地の確保が困難になったため、横穴式の墳墓にしたものと考えられています。 北条泰時が市街地への墓所の建設を禁じる法令を出したともいわれています。 |
| (13) | 源氏三代と尼将軍とも呼ばれた北条政子の時代に,幕府が置かれた場所とされる旧跡はどこか。 |
| 1 宇津宮辻子幕府跡 2 大倉幕府跡 3 若宮大路幕府跡 4 由比若宮幕府跡 |
| 1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝は、先祖ゆかりの大倉の地に御所を構えました。 御所は、のちに大倉幕府と呼ばれます。 |
| (14) | 今は度重なる火災などで失われたが,奥州藤原氏が築いた平泉の中尊寺の二階大堂(大長寿院)を模して源頼朝が創建した永福寺があったのはどこか。 |
| 1 鎌倉宮裏手 2 大倉幕府跡の裏山 3 八雲神社(大町)付近 4 極楽寺坂 |
| 永福寺跡は、鎌倉宮から徒歩5分程度の所にあります。 奥州藤原氏の平泉の寺院・庭園は、浄土思想に基づいて造られたもの。 永福寺は、源頼朝が鎌倉に極楽浄土をと考えて建立した寺。 発掘調査では、本堂の二階堂を中心に、南の阿弥陀堂、北の薬師堂が回廊(複廊)で結ばれ、阿弥陀堂の南と薬師堂の北には苑池へと延びる翼廊を従えたもので、平等院の鳳凰堂に似ていたことが確認されています。 本堂の二階堂は、中尊寺の二階大堂(大長寿院)を模したものですが、毛越寺や無量光院も参考にして建設されたものと考えられています。 二階堂の扉と仏壇の後壁の絵は、円隆寺(毛越寺金堂)を模して描かれたものだったようです。 そして、頼朝の永福寺建立に際しての全体構想は、無量光院を中心に置いていたのかもしれません。 無量光院は、悉く宇治の平等院の鳳凰堂を模して建てられたものだったのだといいます。 |

| 鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)・勝長寿院・永福寺は、源頼朝建立の三大寺院と呼ばれています。 |
| (15) | 鶴岡八幡宮が幕末まで鶴岡八幡宮寺であったことを示す旧跡は何か。 |
| 1 法華堂跡 2 大倉幕府跡 3 二十五坊跡 4 太平寺跡 |
| 鶴岡八幡宮裏の「御谷」(おやつ)と呼ばれている所には、鎌倉時代、二十五菩薩にちなんだ二十五坊と別当坊(長官の宿舎)がありました。 二十五坊とは、鶴岡八幡宮寺供僧の住坊のこと。 |
| (16) | 梶原太刀洗水は,梶原景時がある武将を斬った太刀の血のりを洗い流したという湧き水であるが,その武将はだれか。 |
| 1 平賀朝雅 2 大庭景親 3 上総介広常 4 平宗盛 |
| 1183年(寿永2年)12月、源頼朝は挙兵に功のあった上総広常を梶原景時に命じて暗殺します。 梶原大刀洗水は、朝夷奈切通の岩肌から湧き出る鎌倉五名水の一つ。 広常の屋敷は、朝夷奈切通付近にあったと伝えらています。 |

| (17) | 佐助の銭洗水で金銭を洗うと特に福利が増すといわれているのは何の日か。 |
| 1 辰の日 2 酉の日 3 寅の日 4 巳の日 |
| 銭洗水があるのは銭洗弁財天宇賀福神社。 弁財天の縁日は巳の日。 銭洗弁財天宇賀福神社は、源頼朝が巳年の巳の月・巳の日に受けた夢のお告げによって創建されたという社。 北条時頼は湧き出す霊水で金銭を洗い一族の繁栄を祈ったのだとか。 |
| 銭洗弁財天の宇賀神(弁財天)と佐助稲荷の稲荷神は同じ神? |
| (18) | 『吾妻鏡』に「前奥州禅門葬送す。故右大将家(源頼朝)法華堂の東の山上をもって墳墓となす」とあることから,法華堂東隣の山の中腹に墓所があるとされる「前奥州禅門」とはだれのことか。 |
| 1 北条時政 2 北条義時 3 北条重時 4 北条泰時 |
| 2005年(平成17年)、源頼朝墓東隣の山の中腹から北条義時のものと考えられる法華堂跡が発掘されています。 |
| (19) | 鎌倉と金沢八景を結び,鎌倉の東側の守備を担ったと考えられる切通はどこか。 |
| 1 釈迦堂切通 2 朝夷奈切通 3 極楽寺切通 4 名越切通 |
| 鎌倉と金沢(六浦)を結ぶ切通は、朝夷奈切通。 |
| (20) | 鎌倉の名の由来の一つとして,中臣鎌足が夢のお告げで護身用に持参した鎌(鎌槍)をある場所に埋めたという伝説があるが,その場所はどこか。 |
| 1 松ヶ岡 2 扇ヶ谷 3 二階堂 4 西御門 |
| 藤原鎌足が大職冠という官位を授かり、鹿島神宮へ詣でた際に、持っていた鎌を鎌倉の松ヶ岡に埋めたので「鎌倉」と呼ばれるようになったという伝説があります。 松ヶ岡がどこなのか不明ですが、浄妙寺の鎌足稲荷社、鶴岡八幡宮の大臣山にその伝説が残されています。 |
| 自然・景観の問題 |


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