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金堂は、毛越寺の中心伽藍で、藤原基衡が万宝を尽くして建立した勅願寺。 基壇には54個の礎石が残されている。 本尊は雲慶作の丈六の薬師如来。 東廊先端には鐘楼が、西廊先端には経楼が附属していた。 『吾妻鏡』には、「毛越寺本堂の金堂は円隆寺といい、金銀を沢山用いて、紫檀や赤木などを使用し、多くの宝物で彩られていたこと」が記され、「雲慶による丈六薬師如来像と十二神将像が祀られ、玉眼入りの仏像としては最初の例だったこと」が記されている。 『吾妻鏡』に記す雲慶が、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した奈良仏師・運慶かどうかは定かではない(金堂建立の時期と運慶の活躍した時期が合致しない。)。 |
金堂を中心に鐘楼・経楼は対称の位置にあり、土壇並びに間、礎石の位置ともに同じで、16個の礎石が完存する。 |
〜奥州藤原氏の財力を物語る贈り物〜 |
『吾妻鏡』によると、本尊造立を仏師・雲慶に頼んだ基衡は、砂金、鷲の羽、アザラシの皮、絹、麻布、馬、白布などの贈り物をした。 完成までの3年間で、それらを運ぶ荷駄が東山道や東海道に絶えることはなかったという。 また、別に精錬していない絹を船三艘に積み込んで送ったところ、喜んだ仏師に「精錬した絹が欲しかった」と冗談をいわれ、悔い驚いた基衡は、すぐに練絹を三艘の船に積んで送ったのだという。 |
〜京からの持ち出しを禁じられた本尊〜 |
『吾妻鏡』によると、鳥羽法皇は雲慶の仏像を見て、その出来栄えに驚き、これを都から持ち出すことを禁じた。 それを聞いた基衡は、持仏堂に籠もり七日間の断食をして祈り、子細を九条関白忠通に伝えたところ、忠通のとりなしで、ようやく許可を得て本尊を平泉に迎えることができたのだという。 |
平泉の寺院に魅せられた源頼朝は、1192年(建久3年)正月、平泉の寺院を模した永福寺の建立に着手。 『吾妻鏡』によると、扉と仏壇の後壁の絵は、円隆寺の壁画を模して描かれたものだったのだという。 |
『吾妻鏡』によると、1189年(文治5年)、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、清衡・基衡・秀衡の三代が建立した寺院の領地は先例のとおり寄付することとし、たとえ堂塔がなくなってしまっている土地であっても地頭が占領することを禁じ、その旨を円隆寺の南大門に張り紙したのだという。 |
『吾妻鏡』が伝える中尊寺 『吾妻鏡』が伝える毛越寺 |
毛越寺は奥州藤原氏二代基衡、三代秀衡の時代の寺院跡。 2011年(平成23年)、「平泉〜仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群〜」として世界文化遺産に登録されている。 |
岩手県平泉町字大沢58 JR平泉駅から徒歩7分程度 |
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