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| 鎌倉の歴史・旧跡に関する記述について,最も適当なものを 1 〜 4 から選びなさい。 | 
| (1) | 鎌倉市は今年市制何周年を迎えるか。 | 
| 1 60周年 3 100周年 | 2 80周年 4 120周年 | 
| 市制についての問題は、第1回鎌倉検定、第3回鎌倉検定に出題されました。 第3回のときは70周年。 鎌倉市は1939年(昭和14年)に、鎌倉町と腰越町が合併して市となりました。 | 
| (2) | 東大寺再興の勧進のため,西行が陸奥に赴く途中,鎌倉で謁見した逸話が残る人物はだれか。 | 
| 1 源頼家 3 源実朝 | 2 源頼朝 4 北条政子 | 
| 西行は『山家集』を編んだことで知られている歌人。 歌人というと源実朝かなと思う方もいるかもしれませんが・・・ 『吾妻鏡』によると・・・ 1186年(文治2年)8月15日、東大寺再興の勧進のため奥州へ向かう途中の西行が鎌倉に立ち寄ります。 源頼朝は、鶴岡八幡宮の鳥居付近を徘徊していた西行を発見。 御所に招いて和歌や弓馬のことについて尋ねたのだといいます。 | 

 西行と流鏑馬
西行と流鏑馬| (3) | 2 代将軍の外戚となり,権力を振るったが,北条氏討伐の企てが北条政子に知られ,名越の北条時政邸で謀殺されたと伝わる人物はだれか。 | 
| 1 千葉常胤 3 梶原景時 | 2 三浦義明 4 比企能員 | 
| 1203年(建仁3年)7月、源頼家が危篤状態となったことから始まった北条時政の謀略。 9月2日、頼家は、比企能員に北条氏を討伐の許可を与えますが・・・ 同日、時政は、能員を自邸(名越亭)に誘き出し、天野遠景と仁田忠常に命じて暗殺しました。 | 

| (4) | 最初の摂家将軍として,わずか 2 歳で鎌倉幕府第 4 代将軍に迎えられた人物はだれか。 | 
| 1 藤原(九条)兼実 2 藤原(九条)頼経 3 藤原(九条)頼嗣 4 藤原(九条)良経 | 
| 1219年(建保7年)、三代将軍源実朝が暗殺されると、北条政子は親王を将軍に迎えようとしますが、後鳥羽上皇に拒否されたため、九条道家の三男・三寅(のちの頼経)が迎えられました(摂家将軍)。 頼経は、源頼朝の姉(妹)坊門姫の曾孫。 幼い三寅の後見役は政子。 この時から、政子は尼将軍と呼ばれます。 | 

| 承久の乱は、源実朝の暗殺と、後継者に九条道家の三男・三寅が選ばれたことと関係が深い。 | 
| (5) | 1335 年(建武 2),北条高時の子である時行が鎌倉政権復活を図って挙兵し,足利直義を破って一時的に鎌倉を支配下に置いたできごとを何というか。 | 
| 1 中先代の乱 3 承久の乱 | 2 正中の変 4 霜月騒動 | 
| 1335年(建武2年)7月、北条高時の遺児時行が挙兵(中先代の乱)。 鎌倉を攻める際、時行軍は暴風雨に襲われたため大仏殿に避難しますが、棟梁が折れて兵士500人が圧死したのだと伝えられています。 時行が鎌倉を攻めたことで、足利直義は幽閉されていた護良親王を殺害して、鎌倉を逃れています。 | 
|   護良親王墓 |  鎌倉大仏殿跡 | 

| (6) | 室町時代に初代鎌倉公方足利基氏の補佐役として上杉憲顕が任命された職制を何というか。 | 
| 1 関東管領 3 連署 | 2 管領 4 内管領 | 
| 関東管領は、室町時代に鎌倉府の長官だった鎌倉公方を補佐するために置かれた役職。 管領は、室町幕府将軍の補佐する役職。 連署は、鎌倉幕府の執権を補佐する役職。 内管領は、北条得宗家の執事。 | 
| (7) | 永享の乱で,将軍足利義教に討たれた鎌倉公方はだれか。 | 
| 1 足利氏満 2 足利成氏 | 2 足利持氏 4 足利義満 | 
| 永享の乱は、鎌倉公方の足利持氏が、室町幕府六代将軍・足利義教と関東管領・上杉憲実と対立して起こった戦い。 | 

 足利持氏供養塔
足利持氏供養塔| (8) | 1936 年(昭和 11)に,鎌倉在住の作家によって結成された鎌倉ペンクラブの初代会長はだれか。 | 
| 1 里見ク 3 久米正雄 | 2 川端康成 4 大佛次郎 | 
 久米正雄胸像
久米正雄胸像| (9) | 鎌倉の海岸沿いを走るかつての湘南有料道路,現在の国道 134 号線が開通したのはいつか。 | 
| 1 1889 年(明治 22) 2 1910 年(明治 43) 3 1930 年(昭和 5) 4 1956 年(昭和 31) | 
| 海岸線を走る国道134号線は、1956年(昭和31年)に湘南有料道路として開通しています。 湘南有料道路が存在したのは、1986年(昭和61年)まで。 | 

| この領収書は、逗子区間の料金所のものです(昭和59年)。 | 
| (10) | 江戸時代には富士山を望む景勝地として多くの浮世絵に描かれ,最近では「日本の渚百選」にも選ばれているのはどこか。 | 
| 1 和賀江嶋 3 稲村ヶ崎 | 2 由比ヶ浜 4 七里ヶ浜 | 
| 江ノ電車窓からの景色も人気の七里ヶ浜は、「日本の渚百選」に選ばれています。 | 
 七里ヶ浜
七里ヶ浜| (11) | 今は度重なる火災などで失われたが,奥州藤原氏が築いた平泉の中尊寺の二階大堂(大長寿院)を模して源頼朝が創建した壮大な寺であった永福寺があったのはどこか。 | 
| 1 大倉幕府跡の裏山 2 鎌倉宮裏手 3 八雲神社(大町)付近 4 極楽寺坂 | 
| 永福寺は、鎌倉幕府(頼朝の御所・大倉幕府)の鬼門の方角(北東)に創建されました。 その場所は、鎌倉宮の裏手。 永福寺は、中尊寺、毛越寺、無量光院などを模して建てれた寺院。 弟源義経と奥州藤原氏の霊魂を鎮めるために建立したのだと伝えられています。 苑池の景観は、宇治平等院の鳳凰堂前の阿字池のようであったと想定されています。 本堂は、中尊寺の大長寿院(二階大堂)を模して建てられたようですが、両側に阿弥陀堂、薬師堂を従え、前面には苑池も造営されていることから、全体のイメージは、無量光院を参考にしたのかもしれません。 無量光院は、奥州藤原氏三代目の秀衡が、宇治の平等院鳳凰堂を模して建てた寺院だったといいます。 | 
 永福寺跡
永福寺跡|   中尊寺 |  大長寿院 | 
|  毛越寺 |  無量光院跡 | 



| (12) | 大御堂橋の下を流れる滑川が古くは坐禅川といわれたのは,だれにちなんでか。 | 
| 1 日蓮 3 文覚 | 2 忍性 4 空海 | 
| 大御堂橋の袂には、文覚上人屋敷跡の碑が建てられています。 伊豆で源頼朝と出会い、挙兵を勧めたという文覚の屋敷は、頼朝の御所の南、大御堂(勝長寿院)の西にあったのだといいます。 | 
 文覚上人屋敷跡
文覚上人屋敷跡| (13) | 日蓮袈裟掛松が近くにあるのは鎌倉十橋のうちではどれか。 | 
| 1 歌ノ橋 3 裁許橋 | 2 琵琶橋 4 針磨橋 | 
| 日蓮袈裟掛松の碑が建てられているのは稲村ガ崎。 歌ノ橋は二階堂(金沢街道)、琵琶橋は鶴岡八幡宮の参道若宮大路、裁許橋は御成町、針磨橋は七里ヶ浜に注ぐ極楽寺川に架けられた橋。 | 
 日蓮袈裟掛松
日蓮袈裟掛松|   歌ノ橋 |  琵琶橋 | 
|  裁許橋 |  針磨橋 | 

| (14) | 鎌倉十井の 1 つである星ノ井は,どの切通の登り口にあるか。 | 
| 1 亀ヶ谷坂 3 極楽寺切通 | 2 大仏切通 4 巨福呂坂 | 
| 星ノ井は、鎌倉江ノ島街道の旅人の喉を潤したという井戸。 京からの帰りの徳川家康も立ち寄ったのだと伝えられています。 極楽寺切通の入口、虚空蔵堂の下にあります。 | 
|   星ノ井 |  極楽寺切通 | 

| (15) | 梶原太刀洗水は,梶原景時がある武将を斬った太刀の血のりを洗い流したという湧き水であるが,斬られた武将はだれか。 | 
| 1 平賀朝雅 3 上総介広常 | 2 大庭景親 4 平宗盛 | 
| 梶原太刀洗水は、朝夷奈切通の岩肌から湧き出る鎌倉五名水の一つ。 1183年(寿永2年)、源頼朝の命を受けて上総介広常を討った梶原景時が太刀の血のりを洗い流したという伝説が残されています。 | 
 梶原太刀洗水
梶原太刀洗水
| (16) | 以前は建長寺門前にあったが,現在は歩道の敷石にその位置が示されているのみで,徳川光圀の『鎌倉日記』や「建長寺境内絵図」に描かれている泉を何というか。 | 
| 1 日蓮乞水 3 甘露水 | 2 金龍水 4 不老水 | 
| 徳川光圀が編纂させた『新編鎌倉志』には「建長寺の西外門の前にある」と書かれています。 | 
 金龍水
金龍水
| (17) | 『吾妻鏡』に「前奥州禅門葬送す。故右大将家(源頼朝)法華堂の東の山上をもって墳墓となす」とあることから,法華堂東隣の山の中腹に墓所があるとされる「前奥州禅門」とはだれのことか。 | 
| 1 北条時政 3 北条重時 | 2 北条義時 4 北条泰時 | 
| 2005年(平成17年)、源頼朝墓東隣の山の中腹から北条義時のものと考えられる法華堂跡が発掘されています。 | 
 北条義時法華堂跡
北条義時法華堂跡| (18) | 鎌倉時代には鶴岡八幡宮の東側の「筋違橋」から宝戒寺,本覚寺前を通り,材木座までの道筋とされ,現在は本覚寺門前にある夷堂橋より北の部分を指す大路を何というか。 | 
| 1 小町大路 2 横大路 | 2 大町大路 4 二階堂大路 | 
| 小町大路は、鶴岡八幡宮の参道若宮大路の東側を並行し、筋違橋から宝戒寺、本覚寺の門前を通り、大町大路を横断、乱橋を渡って材木座まで通ずる鎌倉の基幹道路でした。 | 

 小町大路
小町大路
| (19) | 現在,今小路は壽福寺門前付近からどこまでをいうか。 | 
| 1 鶴岡八幡宮 3 由比ヶ浜 | 2 六地蔵 4 御成小学校 | 
| 今小路も若宮大路と平行する路。 徳川光圀が編纂させた『新編鎌倉志』では、壽福寺の門前の勝ノ橋から巽神社までの路とされているようですが、現在では六地蔵に至るまでの道を「今小路」と呼んでいるようです。 | 

 今小路
今小路
| (20) | 坂ノ下の地名の由来は,ある切通の下にある地域であるからとされるが,ある切通とはどこのことか。 | 
| 1 名越切通 3 大仏切通 | 2 極楽寺切通 4 釈迦堂切通 | 
| 坂ノ下という地名は、鎌倉七口の一つ極楽寺坂切通の下にあることによるとされています。 | 
|  星の井通り |  極楽寺切通 | 

| 自然・景観の問題 | 


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