|
金沢街道(六浦路)の浄明寺地区には、足利義兼が邸を構えて以来、足利氏の嫡流の居館があった(参考:浄妙寺)。 室町時代の足利基氏をはじめとする代々鎌倉公方もこの地を屋敷とした。 義兼は、源義家を祖とする源氏で、源頼朝にも早い段階で従っている。 鎌倉幕府においても頼朝の重臣として高い地位にあった。 |
鎌倉公方とは、室町時代に設置された鎌倉府の長官のことで、初代には足利尊氏の子基氏がなった(1349年(正平4年/貞和5年))。 以後、基氏の子孫が世襲した。 鎌倉公方の下には、その補佐役として関東管領が置かれ、上杉氏(山内、犬懸、扇谷、宅間)が世襲した。 当初、鎌倉公方は、関東八カ国に伊豆・甲斐を加えた10カ国を統治するために置かれたが、次第に大きくなり、東北一円をもその支配下に置くことになる。 |
鎌倉公方 |
初代:足利基氏 以後世襲 |
関東管領 |
初代:上杉憲顕 以後世襲 |
上杉禅秀の乱 |
関東管領の地位は、上杉氏による世襲だが、上杉氏は、山内、犬懸、扇谷、宅間に分かれ、それぞれが関東管領の職を争っていた。 四代鎌倉公方の足利持氏は、山内上杉家から上杉憲基を関東管領としたため、前関東管領だった犬懸上杉家の上杉氏憲(禅秀)が反乱を起こす(上杉禅秀の乱:1416年(応永23年))。 一時、鎌倉は禅秀に征圧されるが、持氏は駿河の今川氏の援助を受け、禅秀を自刃に追い込んだ。 これによって犬懸上杉家が没落する。 |
永享の乱 |
四代鎌倉公方の足利持氏は、室町幕府内の混乱もあって、徐々に幕府とは別の勢力としての権限強化を図るようになる。 鎌倉には、鎌倉府の長として鎌倉公方、その補佐役として関東管領が設置されていたが、関東管領の任命権は将軍(室町幕府)にあったことや、上杉禅秀の遺児を将軍家が匿っていたことなどから、「鎌倉公方VS将軍・上杉」の図式が成立していたと思われる。 そして、持氏と関東管領だった上杉憲実との間に対立が生じ、京都扶持衆(幕府から扶持をもらっている関東・東北の武士団)との対立も加わり、6代将軍足利義教が持氏征伐を決定する(永享の乱:1438年(永享10年))。 この戦いに持氏は敗れ、翌年永安寺で自刃。 嫡子義久も報国寺で自刃したことから、実質上、鎌倉公方は持氏の代で終わった。 |
別願寺の供養塔は、持氏の怒りを静めるために四方に鳥居の浮彫りがある。 |
永享の乱後、長い間、鎌倉公方が不在のままの政治が行われたが、1449年(宝徳元年)、持氏の子成氏が鎌倉公方として就任する。 しかし成氏は、1453年(享徳3年)、父持氏が対立した上杉憲実の子で関東管領であった憲忠を謀殺する。これによって、享徳の乱が起こった。 幕府は、成氏討伐を決定し、今川範忠を上杉氏の援軍として送り、結果、成氏は古河に敗走する。 以後、成氏は古河公方と呼ばれるようになる。 1457年(長禄元年)、8代将軍足利義政が、古河にいる成氏の対抗として、異母兄の政知を鎌倉公方として派遣するが、政知は鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越にとどまった(堀越公方)。 その結果、関東は古河の鎌倉公方(古河公方)と伊豆の鎌倉公方(堀越公方)が並び立ち、特に古河公方には関東の諸将が味方し、利根川を挟んで上杉氏とにらみ合う時代が続いたが、1478年(文明10年)に成氏と上杉氏が和睦。幕府も1483年(文明14年)に成氏と和睦し、享徳の乱が終結した。 これによって成氏の鎌倉公方としての地位が承認される形となった。 これらの関東での反乱は、応仁の乱へとつながり、さらに戦国時代へと突入するきっかけをつくった。 |
堀越公方の屋敷があったとされる場所は、かつての北条時政邸があった所。 |
初代:基氏 | 瑞泉寺 長壽寺 |
2代:氏満 | 明月院 海蔵寺 永安寺 |
3代:満兼 | 永安寺(廃寺) |
4代:持氏 | 別願寺 永安寺 本覚寺 |
鎌倉市浄明寺 鎌倉駅から金沢八景・大刀洗行バス 「泉水橋」下車徒歩1分 |
大きい地図を見るには・・・ 右上のフルスクリーンをクリック。 |
|