yoritomo-japan鎌倉

鎌倉殿の13人 二代執権北条義時
特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編 特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編



第19回鎌倉検定試験2級
《歴史・旧跡の問題》

編集:yoritomo-japan.com








歴史・旧跡について,次の各問いに答えなさい。


(1) 1186年(文治2),源頼朝に所望され,静御前が舞を舞ったのは鶴岡八幡宮のどこと伝えられているか。


1 参道
3 舞殿
2 若宮回廊
4 本殿


 『吾妻鏡』によると、1186年(文治2年)4月8日、鶴岡八幡宮に参拝した源頼朝北条政子は、舞を奉納させるため静御前を回廊に呼び出しています。

 静は、吉野山で別れた源義経を慕う歌にあわせて舞い、頼朝を怒らせますが、政子に取り成されて褒美を与えたのだと伝えられています。

 若宮とは、現在の若宮ではなく、石清水八幡宮の分霊を勧請した鶴岡八幡宮のこと。

 1191年(建久2年)の鎌倉大火で鶴岡八幡宮は焼失してしまいますが、1193年(建久4年)、回廊跡には舞殿が建てられています。


答 2


静の舞

北条政子を感動させた静の舞


吉野山





(2) 次のうち,源頼家が家督を継いでから修善寺に幽閉されるまでの間に滅ぼされた御家人の組み合わせはどれか。


1 比企能員・畠山重忠
2 和田義盛・畠山重忠
3 比企能員・梶原景時
4 和田義盛・梶原景時


 源頼家修禅寺に幽閉されたのは、1203年(建仁3年)9月29日。

 それ以前に滅ぼされたのは梶原景時比企能員

 問は「修善寺に幽閉」となっていますが、「修善寺」は弘法大師創建と伝えられる修禅寺が基となった地名。

 修禅寺には頼家の叔父源範頼も幽閉されています。


答 3



梶原景時の変

比企能員の暗殺

源頼家の暗殺

畠山重忠の乱

和田合戦



源頼家の墓
リンクボタン源頼家の墓
源範頼の墓
リンクボタン源範頼の墓





(3) 1658年(万治元)に刊行されると,多くの人たちが鎌倉・江の島方面に訪れるようになるきっかけとなった書物は何か。


1 『鎌倉日記』
2 『東関紀行』
3 『丙辰紀行』
4 『東海道名所記』


 江戸初期、徳川家康が武家政権発祥の地「鎌倉」の保護に力を入れたことで、鎌倉の人気が高まります。

 万治年間の刊行とされる『東海道名所記』は、浅井了意によって著された仮名草子作品で、戸塚と藤沢の間で登場人物が鎌倉の名所について語っています。

 その後、徳川光圀は、自ら鎌倉を訪れて鎌倉の名所・旧蹟を巡遊して『鎌倉日記』にまとめ、それを基に『新編鎌倉志』を編纂させています。


答 4





(4) 1711年(正徳元)に植木村を知行した人物はだれか。


1 新井白石
2 柳沢吉保
3 大岡忠相
4 大河内(松平)正綱


 植木にある龍寳寺には「新井白石の碑」が建てられています。


答 1





(5) 2024年(令和6)から行われた発掘作業で,鎌倉時代中期の主要路と見られる石敷きの遺構と木組みの側溝が発見されたのはどこか。


1 西御門
3 二階堂
2 雪ノ下
4 小町


 2025年(令和7年)、鎌倉市川喜多映画記念館に面する集合住宅の建設現場で、窟小路の石敷の遺構や、直交する南北路の遺構が発見されています。


答 2





(6) 葛原岡神社の北側の谷にある5つの穴からなる鎌倉時代のやぐら群を何というか。


1 百八やぐら
2 お塔やぐら
3 多宝寺址やぐら群
4 瓜ヶ谷やぐら群


 葛原岡神社北側の谷は「瓜ヶ谷」。

 源頼朝の乳母比企禅尼の瓜園があったという伝承も。

 瓜ヶ谷やぐら群の地蔵菩薩像が安置されているやぐらは、特に「地蔵やぐら」と呼ばれています。

 瓜ヶ谷やぐら群は、国指定史跡「仮粧坂」の範囲に含まれています。

 瓜ヶ谷には、大船の多聞院の前身となる観蓮寺があったようです。


答 4





(7) 源頼朝が雪ノ下の大御堂に勝長寿院を創建したのは何のためか。


 元との戦いの戦死者の菩提を弔うため

 奥州藤原氏や弟の鎮魂,慰霊のため

 妻の母の供養のため

 父の供養のため


 源頼朝は、後白河法皇にお願いして父の源義朝と義朝に仕えた鎌田政長(政清・政家)の首を送ってもらい、勝長寿院に葬っています。

 1は北条時宗円覚寺、2は頼朝の永福寺、3は北条泰時常楽寺


答 4





(8) 現在の北条氏常盤亭跡に別邸を構えたことから,常盤殿と呼ばれた人物はだれか。


1 北条政村
3 北条長時
2 北条経時
4 北条重時


 第七代執権北条政村をはじめとする北条氏(政村流)は、鎌倉の防衛の要衝である常盤に別邸を構えました。

 常盤亭には、六代将軍宗尊親王も訪れたことがあったようです。


答 1





(9) 鎌倉十井の一つ「底脱ノ井」の由来を語る伝説で,この井戸の水を汲んで桶の底が抜けたことから,「千代能がいただく桶の底抜けて水たまらねば月もやどらじ(ず)」という和歌を詠んだ女性は,だれの娘だといわれているか。


1 上杉憲方
3 安達景盛
2 上杉定正
4 安達泰盛


 鎌倉十井の一つ底脱ノ井海蔵寺門前の井戸。

 千代能(千代野)は安達泰盛の娘。


答 4


鎌倉十井





(10) 次のうち,新田義貞による鎌倉攻めのルートはどれか。


1 金沢街道
2 鎌倉街道「上の道」
3 鎌倉街道「中の道」
4 鎌倉街道「下の道」


 新田義貞は、1333年(元弘3年)5月8日、新田荘の生品神社で討幕の挙兵。

 小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで幕府軍を破って進軍し、5月18日に鎌倉攻めを開始。

 仮粧坂極楽寺坂巨福呂坂から攻め入りました。

 義貞が使ったのは鎌倉街道上道。


答 2


新田義貞の鎌倉攻め










(11) 源実朝について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。


 鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀式の後,待ち伏せていた源頼家の遺児公暁によって暗殺された。

 謀反の罪で捕らえられた渋川刑部六郎兼守が詠んだ和歌10首のすばらしさに感心して,その罪を許した。

 中国から渡来した工人陳和卿に命じて,中国に渡るための大船を建造させたが,なぜか進水できなかった。

 西行に自分が詠んだ和歌の批評を求め,その指導を受けて,『金槐和歌集』にまとめた。



 『吾妻鏡』によると、1209年(承元3年)、源実朝は、夢のお告げにより和歌二十首を住吉大社に奉納し、藤原定家に三十首の和歌の添削を依頼しています。

 1213年(建保元年)には、定家から『万葉集』の一部を贈られました。

 家集の『金槐和歌集』は、この頃に編纂されたといわれています。


答 4



金槐和歌集

歌ノ橋

宋に憧れた将軍~源実朝の唐船建造・渡宋計画~

源実朝の暗殺





(12) 日蓮に関連する旧跡について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。


 日蓮が極楽寺開山の忍性と雨乞いを競い合ったという田辺が池が埋められた周辺から江戸講中が建てた「日蓮大菩薩祈雨之旧跡地」と記した石塔が明治時代の末に出土した。この地に日蓮上人像と本堂を建立したのが,霊光寺の始まりである。

 日蓮袈裟掛松は,鎌倉十橋の琵琶橋から稲村ヶ崎へ向かう途中にある松で,その傍らには「南無妙法蓮華経」と記された石碑が建つ。

 日蓮上人辻説法跡は,小町大路にあり,日蓮はここで法華経の教えを熱心に説いたという。跡地には石碑と腰掛石が立ち並ぶ。明治時代,日蓮宗学者の田中智学が腰掛石を道の反対側から移し,周囲を整備した。

 日蓮乞水は,長勝寺前から旧名越切通に通じる道の途中にある。日蓮が安房から名越切通を経て鎌倉に入ったとき,辺りで水を求め,杖を地面に突き刺すと,清水が突然,湧き 出し,干ばつでも涸れることがなかったという。



 日蓮袈裟掛松があるのは、針磨橋から稲村ヶ崎に向かう途中。


答 2


鎌倉・霊光寺
リンクボタン霊光寺
鎌倉・日蓮袈裟掛松
リンクボタン日蓮袈裟掛松


日蓮辻説法跡
リンクボタン辻説法跡碑
鎌倉日蓮乞水
リンクボタン日蓮乞水



歴史・旧跡について関連あることがらの組み合わせとして誤っているものを 1~4から選びなさい。


(13) 城址と関わりが深い人物


1 杉本城址-北畠顕家
2 住吉城址-三浦道寸(義同)
3 天神山城址-源頼義
4 玉縄城址-伊勢宗瑞(北条早雲)


 山崎の北野神社が鎮座する山が天神山。

 天神山城は玉縄城の出城と考えられています。

答 3





(14) 鎌倉七口とそれに関連する事柄


 朝夷奈切通-梶原太刀洗水
 仮粧坂-圓應寺
 極楽寺切通-星ノ井
 亀ヶ谷坂-岩船地蔵堂


 圓應寺があるのは巨福呂坂

答 2



鎌倉七口





歴史・旧跡について,次の説明文の〔   〕に最も適当なものを1~4から選びなさい。

鎌倉が別荘地・保養地として全国的に知られるようになったのは,明治政府がドイツから招いた医学者〔 (15) 〕が鎌倉を最適な保養地として欧米に紹介したり,日本の衛生行政の充実に貢献した医師〔 (16) 〕が海水浴場として理想的な海として推奨したりしたことがきっかけの一つとされる。


(15)
1 ハインリッヒ・ナウマン
2 ロベルト・コッホ
3 エルウィン・ベルツ
4 テオドール・ホフマン

(16)
1 長与専斎
2 長井長義
3 北里柴三郎
4 志賀潔


 1880年(明治13年)、ドイツ人医師のエルウィン・ベルツは、七里ヶ浜を結核療養の最適地として紹介しました。

 ベルツは、日光浴で健康増進を図る海水浴を薦めたのだといいます。

 1884年(明治17年)、医学者長与専斎は鎌倉の海を「海水浴に最適の地」と紹介し、由比ヶ浜に海水浴場が開かれました。 


(15) 3  (16) 1



海水浴場開場100年碑
リンクボタン海水浴場開場
100年碑
長与専斎碑
リンクボタン長与専斎の碑

 由比ヶ浜には海水浴場開場100年碑高徳院には長与専斎の碑が建てられています。





鎌倉十井の一つで,材木座と小坪の境界付近にある〔 (17) 〕については,弓の名手で有名な〔 (18) 〕が〔 (19) 〕に敗れて流された伊豆の大島から,光明寺の裏山にある〔 (20) 〕 をめがけて射た矢が,この井戸に落ちたという伝説がある。


(17)
1 棟立ノ井
2 瓶ノ井
3 六角ノ井
4 銚子ノ井

(18)
1 源為義
2 源為朝
3 源義平
4 源義朝

(19)
1 後三年合戦
2 前九年合戦
3 平治の乱
4 保元の乱

(20)
1 天照山
2 鷲峰山
3 衣張山
4 錦屏山



 伝説によると、保元の乱で捕らえられた源頼朝の叔父源為朝は、自慢の弓が引けないよう腕の筋を切られて伊豆大島に流されますが・・・

 傷が癒えると、その力を試すため、光明寺の裏山の天照山めがけて矢を放ったのだとか。

 その矢が落ちたのが六角ノ井と伝えられています。


(17) 3  (18) 2
(19) 4  (20) 1



鎌倉十井





次のページ
自然・景観の問題



鎌倉検定2級
第19回2級トップ





鎌倉検定
(3級・2級・1級の問題と解説)


鎌倉検定の受検お申し込みは

鎌倉商工会議所ホームページ









yoritomo-japan 鎌倉
(鎌倉情報トップ)