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| 歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1〜4から選びなさい。 | 
| ○鎌倉では世界遺産登録を目指してさまざまな取り組みが行われているが、次の切通のうち、世界遺産登録候補地に含まれていないものはどれか。 | 
| 1 極楽寺切通 3 名越切通 | 2 亀ヶ谷坂 4 仮粧坂 | 
| 切通で世界遺産登録候補地になっているのは、大仏切通、仮粧坂、亀ヶ谷坂、朝夷奈切通、名越切通です(参考:極楽寺切通)。 | 
 鎌倉七口
鎌倉七口
| ○髪を「みずら」(古代人の髪型)に結った男が、舟に乗り、楯を持ち、弓を射る様子を描いた線刻画があるのはどの横穴群か。 | 
| 1 山崎横穴群 2 稲村ヶ崎姥ヶ谷横穴群 3 洗馬谷横穴群 4 笹目谷横穴群 | 
| 関谷の洗馬谷横穴群には、水上での舟の戦いが描かれています。 | 

 洗馬谷横穴群
洗馬谷横穴群| ○奈良時代以降、鎌倉郡が沼浜・鎌倉・埼立・荏草・梶原・尺度・大島の七郷から成り立っているとの記述のある、平安時代に著された書物は何か。 | 
| 1 『扶桑略記』 3 『倭名類聚抄』 | 2 『今鏡』 4 『大鏡』 | 
| 扶桑略記、今鏡、大鏡はともに歴史書。 倭名類聚抄は平安時代の辞典で900年代の成立です。 | 
| ○源実朝を暗殺した、頼家の遺児公暁は出家していたが、どの社寺の別当だったか。 | 
| 1 永福寺 3 勝長寿院 | 2 甘縄神明神社 4 鶴岡八幡宮寺 | 
| 鶴岡八幡宮は江戸時代まで「鶴岡八幡宮寺」と呼ばれる神仏混淆の宗教施設でした。 公暁は祖母の北条政子に鶴岡八幡宮の別当(長官)にしてもらいました。 | 

 鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮
| ○鎌倉時代、源実朝暗殺以降、幕府の実権は執権である北条氏が握ったが、北条氏の家紋はどれか。 | 

| 北条氏の家紋は「ミツウロコ」。2は分りませんが、4は源氏の家紋といわれる「ササリンドウ」。 正解は3のようですが、本当にそうなのでしょうか・・・? | 
 北条氏のミツウロコ
北条氏のミツウロコ| ○後北条氏が下総の里見氏と激戦の後、渡内福原氏、大船甘糟氏を始め、味方の主だった将兵35名を葬った塚は何か。 | 
| 1 十一人塚 3 富士塚 | 2 和田塚 4 玉縄首塚 | 
| 十一人塚は、新田義貞の鎌倉攻めで討死した大舘宗氏以下11人が葬られた所。 和田塚は、和田合戦の戦死者を葬った所と伝えられています。 里見氏との戦い後、玉縄城主北条氏時が戦死者を葬ったのは玉縄首塚。毎年8月には玉縄首塚まつりが行われます。 | 
|  玉縄首塚 |  玉縄首塚まつり | 
| ○六地蔵には松尾芭蕉の「夏草やつわものどもが夢のあと」の句碑が建っているが、これを建てた俳人はだれか。 | 
| 1 室井其角 3 森川許六 | 2 松尾百遊 4 志太野披 | 
| 六地蔵のあるところは、刑場があった場所。 芭蕉をしのんで弟子の百遊が建てたといわれています。 百遊は雪ノ下で旅館を経営していたのだといいます。 「夏草やつわものどもが夢のあと」は、芭蕉が奥州平泉を訪れた時に、奥州藤原氏や、この地で自刃した源義経を思って詠んだ句。 | 
|   六地蔵 |  芭蕉句碑 (平泉高館義経堂) | 
| ○室町時代、鎌倉に主なく、次第にさびれた寒村となっていく直接の原因ともなったできごととして正しいのはどれか。 | 
| 1 | 新田義貞が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府を滅ぼし、市街地を焼き払ったこと。 | 
| 2 | 戦国大名の里見氏や上杉謙信たちが後北条氏(の一族)と戦ったこと。 | 
| 3 | 鎌倉公方であった足利成氏が今川氏に追放され、下総の古河に拠点を移したこと。 | 
| 4 | 豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼし、徳川家康にその領地を与えたこと。 | 
| 第五代鎌倉公方の足利成氏は、今川氏に攻められ古河に逃れたことから古河公方と呼ばれました。 また、将軍足利義政が鎌倉公方として派遣した政知は伊豆の堀越に留められたので堀越公方と呼ばれました。 鎌倉公方の成氏が鎌倉を離れたことで政治の中心が鎌倉から離れ、さびれていく原因となりました。 | 
| ○源頼朝の一族について、次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 | 
| 1 | 源義経は、侍所の別当和田義盛に宛てて、「腰越状」を送るなど、兄頼朝の怒りを解こうと苦慮した。 | 
| 2 | 源頼朝は、娘の大姫を入内させて天皇家と姻戚関係を結ぼうと願ったが、果たせなかった。 | 
| 3 | 源範頼は、曽我兄弟の仇討ち事件のとき、謀反を疑われて、伊豆の修善寺に流された。 | 
| 4 | 源頼家は、梶原景時や比企能員らの後ろ盾を失って、自らも密かに暗殺された。 | 
| 源義経が満福寺で書いたといわれる「腰越状」は、和田義盛に宛てたのではなく、大江広元に宛てた手紙でした。 | 
|  満福寺 |   腰越状 | 
|  大姫入内の夢  曽我兄弟の仇討ち  源範頼の謀反  源頼家の墓 | 
| ○鎌倉の地名の由来について、次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 | 
| 1 | 平将門の乱の時、多数の兵士の死骸が山となったという鎌倉の山々を屍蔵と呼ばれたのがなまって鎌倉となった。 | 
| 2 | 藤原鎌足が鹿島神宮への参拝途中、由井里(今の由比ヶ浜)に泊まった時、夢で神のお告げによって、護身用に所持していた鎌槍を大倉の松ヶ岡に埋めた故事による。 | 
| 3 | 鎌倉の海辺や河口には蘆や蒲が群生していたことから蒲倉と呼ばれていたのがなまって鎌倉になったとか、神(の)倉がなまって鎌倉になったという説もある。 | 
| 4 | 鎌は「かまど」、倉は「谷」を意味する。一方が海に開け、三方を山に囲まれた地形がかまどに似ていることと谷を倉と呼ぶことから「かまどくら」がなまって「鎌倉」となった。 | 
| 平将門ではなく神武天皇が東夷を征服しようとして毒矢を放ったところ、死体が山となり屍蔵(かばねくら)と呼ばれたという伝説があります。 平将門の乱は、下総、上総で起こった反乱。 | 
 伝説の鎌足桜
伝説の鎌足桜| ☆ 歴史・旧跡について関連あることがらの組み合わせとして誤っているものを1〜4から選びなさい。 | 
| ○橋と関連人物 | 
| 1 裁許橋・源頼朝 2 東勝寺橋・青砥藤綱 3 歌ノ橋・渋川兼盛 4 乱橋・足利尊氏 | 
| 裁許橋では源頼朝と西行が出会ったといわれ、東勝寺橋には青砥藤綱の伝説が残され、歌ノ橋には源実朝と渋川兼守の伝説が残されています。 乱橋は、新田義貞の鎌倉攻めの際、幕府軍が乱れはじめたところといわれています。 | 
|  鎌倉十橋 |  東勝寺橋 | 
| ○井戸、水、滝と関連人物 | 
| 1 棟立ノ井・行基 2 金龍水・徳川光圀 3 今泉不動の男滝、女滝・空海 4 底脱ノ井・安達泰盛 | 
| 建長寺門前にあったという金龍水については徳川光圀が「鎌倉日記」に書いています。 今泉にある稱名寺の男滝、女滝の伝説は空海、海蔵寺の底脱ノ井は安達泰盛の娘が関係しています。 覚園寺の棟立ノ井は空海が掘った井戸といわれています。 | 
|  鎌倉五名水 |  鎌倉十井 | 
| ☆ 歴史・旧跡について、次の説明文の[ ]に最も適当なものを1〜4から選びなさい。 | 
| 1028年(長元元)、[ (1) ]の乱が起こり、朝廷によって平直方が追討使に任命されたが、果たせず、更迭された。代わって、摂関家に縁のある源満仲の子、源頼信が、追討使となって乱をおさめた。平直方は、その陣中にあった頼信の子[ (2) ]のすぐれた騎射に感心して、娘婿に迎え、その子[ (3) ]及びその子孫に、領地の鎌倉を譲ったことに、鎌倉と源氏の縁が始まる。 | 
| (1) | |
| 1 平国香 3 平貞盛 | 2 平将門 4 平忠常 | 
| 国香は将門の乱により討たれ、国香の子貞盛は将門を討った武将。将門の乱は930年代に起こりました。 | 
| (2) | |
| 1 源頼光 3 源為義 | 2 源頼政 4 源頼義 | 
| 頼光は頼信の兄。頼政は頼光の子孫で以仁王とともに平家打倒の兵を挙げた人物。為義は義家の孫。 | 
| (3) | |
| 1 源義家 3 源為朝 | 2 源義光 4 源義国 | 
| 義光(新羅三郎義光)は義家の弟。為朝は為義の子で頼朝の叔父。義国は義家の子。 | 
 由比若宮
由比若宮| 源頼朝は、[ (1) ]を攻めたときに見た平泉の中尊寺金色堂や[ (2) ]の庭園の壮麗さに感銘して、後に、鎌倉の地にもこれに似た壮麗な寺や庭園を築いたのが、[ (3) ]である。[ (3) ]は、鶴岡八幡宮(寺)・[ (4) ]とともに、鎌倉幕府成立当初の三大寺院といわれた。将軍の創建であり、幕府主催の国家守護の祈祷を行うところから「幕府の[ (5) ]」という性格を帯びていた。 | 
| (1) | |
| 1 藤原清衡 3 藤原秀衡 | 2 藤原基衡 4 藤原泰衡 | 
| 源頼朝は、源義経の理解者だった藤原秀衡が死ぬと、1189年(文治5年)に奥州征伐を行います。 秀衡の子泰衡は平泉館を焼き払い、逃亡の末、比内郡贄柵で郎党に殺されました。 これによって藤原清衡以来栄えた奥州藤原氏は滅びました。 藤原基衡は清衡の子。 奥州藤原氏は、清衡⇒基衡⇒秀衡⇒泰衡と続き、秀衡のときに最盛期を迎えました。 | 

 奥州平泉
奥州平泉| (2) | |
| 1 宝持寺 3 無量光院 | 2 毛越寺 4 観自在王院 | 
| 奥州藤原氏は、清衡が中尊寺、基衡が毛越寺、秀衡が無量光院を建立しました。当時、毛越寺は中尊寺をもしのぐ伽藍を呈していたと伝えられています。 | 
|   中尊寺 |   観自在王院 | 
|   毛越寺 |   無量光院跡 | 
| (3) | |
| 1 永福寺 3 太平寺 | 2 永安寺 4 東勝寺 | 
| 永安寺(廃寺)は、瑞泉寺総門近くにあった足利満兼が建てた寺で永享の乱で敗北した足利持氏が自刃しました。太平寺(廃寺)は、西御門の来迎寺付近にあった尼寺です。東勝寺(廃寺)は、北条泰時が建てたといわれていて、北条一族が自刃した寺です。 | 
 永福寺跡
永福寺跡| (4) | |
| 1 成就院 3 勝長寿院 | 2 極楽寺 4 大慈寺 | 
| 成就院は北条泰時、極楽寺は北条重時、大慈寺(廃寺)は源実朝が建てました。 | 
 勝長寿院跡
勝長寿院跡| (5) | |
| 1 官寺 3 内寺 | 2 公寺 4 司寺 | 
| 官寺は、国家の監督を受ける一方で、経済的保障があった寺。 | 




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