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| 歴史・旧跡に関する記述について、最も適当なものを1~4から選びなさい。 |
| (1) | 次のうちで初代の関東管領を務めたのはだれか。 |
| 1 上杉憲方 3 上杉憲実 |
2 上杉氏憲 4 上杉憲顕 |
| 上杉氏は、1252年(建長4年)、第六代将軍宗尊親王が鎌倉に下向する際に、公家であった上杉重房が親王に従って下向してきたのがそのはじまりです。 関東管領は鎌倉公方の補佐役。 当初は関東執事と呼ばれ、斯波氏、高氏なども就任していました。 関東管領と呼ばれるようになったのがいつのことからかは分かりませんが・・・ 問いの人物の中で一番古いのは憲顕。 鎌倉幕府滅亡後に鎌倉を統治した足利義詮の補佐役、初代鎌倉公方足利基氏の補佐役を務めました。 |

| (2) | 鎌倉十井のうちで徳川光圀の『鎌倉日記』に「…谷ノ辺ニ潔キ水湧出ル也」とあるのはど れか。 |
| 1 泉ノ井 3 鉄ノ井 |
2 扇ノ井 4 星ノ井 |
| 『鎌倉日記』には「泉井谷ノ辺ニ潔キ水湧出ル也」と記されています。 |
| (3) | 次のうちで明治時代の日蓮宗学者の田中智学がその周囲を整備したのはどれか。 |
| 1 日蓮袈裟掛松 2 日蓮上人辻説法跡 3 日蓮乞水 4 日蓮雨乞いの池 |
| 1254年(建長6年)に鎌倉に入った日蓮は、松葉ヶ谷に草庵をむすび、小町大路を中心に辻説法を行いました。 田中智学は、日蓮の腰掛石が路傍に捨て置かれている様を見て、日蓮の旧蹟復興を考えのだそうです。 亀ヶ谷坂には、日蓮信者の田中智学が建てた師子王文庫がありました。 |

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| (4) | 六地蔵には松尾芭蕉の「夏草やつわものどもが夢のあと」の句碑が建っているが,これを 建てた俳人はだれか。 |
| 1 森川許六 3 宝井其角 |
2 志太野坡 4 松尾百遊 |
| 六地蔵のある辻は「芭蕉の辻」とも呼ばれるそうです。 句碑は、雪ノ下で旅館を経営していたという俳人・松尾百遊が建てました。 参考までに、「夏草やつわものどもが夢のあと」は、奥州平泉を訪れた松尾芭蕉が源義経の衣川館址で詠んだもの。 |
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(平泉) |

| (5) | 鎌倉五名水のうちで今は詳細な所在場所が明らかではないのはどれか。 |
| 1 梶原太刀洗水 3 日蓮乞水 |
2 銭洗水 4 不老水 |
| 「不老水」は、建長寺にあったということは確かのようですが、それがどこにあったのかは不明です。 梶原太刀洗水は朝夷奈切通、銭洗水は銭洗弁財天宇賀福神社、日蓮乞水は名越切通にあります。 |
| (6) | 鎌倉十橋のうちで 1992 年(平成四)に御影石の新しい橋が再建されたのはどれか。 |
| 1 夷堂橋 3 琵琶橋 |
2 裁許橋 4 歌ノ橋 |
| 若宮大路にある琵琶橋は、かつては擬宝珠のついた朱塗りの橋だったそうです。 |
| (7) | 後北条氏が下総の里見氏と激戦の後,渡内福原氏,大船甘糟氏を始め,味方の主だった将兵35名を葬った塚は何か。 |
| 1 十一人塚 3 富士塚 |
2 和田塚 4 玉縄首塚 |
| 1526年(大永6年)、安房の里見実堯が鎌倉に攻め込みます。 玉縄城の北条氏時(北条氏綱の弟)がこれを迎え撃ち、戸部川(柏尾川)付近で激しい戦闘となりました。 合戦後、氏時は、里見方に申し入れて、互いに討ち取った首を交換して葬ったのだと伝えられています。 その場所が玉縄首塚。 毎年8月には玉縄首塚まつりが行われています。 |
| (8) | 次の「鎌倉往還」のうち,新田義貞による鎌倉攻めのルートはどれか。 |
| 1 鎌倉街道「上の道」 2 鎌倉街道「中の道」 3 鎌倉街道「下の道」 4 金沢街道 |
| 1333年(元弘3年)5月8日、後醍醐天皇の綸旨を受けて、新田庄生品神社で討幕の挙兵をした新田義貞。 小手指原の戦い、久米川の戦い、そして分倍河原の戦いで幕府軍に勝利し、鎌倉を目指します。 義貞の鎌倉攻めでは「上の道」が使われました。 |
(太田市) |
![]() (府中市) |

| (9) | 奈良時代~平安時代の鎌倉について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
| 1 | 御成町の御成小学校の敷地内から「天平五年」と記された木簡が出土し,鎌倉に郡の役所が所在していたことが確認された。 |
| 2 | 長谷の甘縄神明神社は奈良時代に,二階堂の荏柄天神社は平安時代に建立されたという伝承を持つ。 |
| 3 | 『倭名類聚抄』によると,鎌倉郡は,沼浜・鎌倉・埼立・荏草・梶原・尺度・大島の七つの郷から成っていた。 |
| 4 | 『天養記』には,「山内荘」,『吾妻鏡』には,「玉輪荘」の名が見え,鎌倉郡の中にはすでに荘園が成立していた。 |
| 4は『天養記』と『吾妻鏡』が逆のようです。 |

| (10) | 墓及び供養塔について,次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。 |
| 1 | 大江広元墓とされるのは,西御門にある源頼朝墓の東側山腹にある三つのやぐらの中央, 及び明王院裏山の層塔である。 |
| 2 | 極楽寺開山忍性の墓とされるのは,奥ノ院にある高さ約 3.9 mの宝篋印塔である。 |
| 3 | 上杉憲方墓とされるのは,極楽寺坂沿いの民家裏に残る七層塔と明月院やぐらの宝篋印塔である。 |
| 4 | 北条政子墓とされるのは,壽福寺の裏山に源実朝墓と隣り合って並ぶ五輪塔と,安養院本堂裏手の二基の宝篋印塔のうち小さい方である。 |
| 極楽寺の忍性の墓は宝篋印塔ではなく五輪塔。 |
(法華堂跡) (安養院) |
(明王院裏山) (壽福寺) |
| 歴史・旧跡について関連のあることがらの組み合わせとして誤っているものを1~4から選びなさい。 |
| (11) | 争いと対立関係 |
| 1 | 宝治合戦 …北条時頼⇔三浦義村 |
| 2 | 霜月騒動 …平頼綱⇔安達泰盛 |
| 3 | 永享の乱 …足利義教⇔足利持氏 |
| 4 | 享徳の乱 …足利成氏⇔上杉憲忠 |
| 宝治合戦は、北条時頼と三浦泰村の戦い。 |
| (12) | やぐらと寺社 |
| 1 | 百八やぐら-覚園寺 |
| 2 | 多宝寺址やぐら群-圓應寺 |
| 3 | 朱垂木やぐら-建長寺 |
| 4 | 瓜ヶ谷やぐら群-葛原岡神社 |
| 多宝寺は浄光明寺の東の谷戸にあった寺院。 毎年4月の鎌倉まつりの期間中に、多宝寺址の覚賢五輪塔が公開されています。 やぐら群は五輪塔の下方にあります。 |
| 歴史・旧跡について、次の説明文の[ ]に最も適当なものを1~4から選びなさい。 |
| 1144年(天養元)〔 ⒀ 〕は〔 ⒁ 〕が寄進したという〔 ⒂ 〕の荘園である大庭御厨へ侵入した。当時〔 ⒀ 〕は現在の〔 ⒃ 〕付近にあったとされる「鎌倉之楯」を拠点に東国で活動していた。 |
| (13) | |
| 1 源頼義 3 源義光 |
2 源義家 4 源義朝 |
| (14) | |
| 1 大庭景親 3 上総介広常 |
2 鎌倉権五郎景政 4 梶原景時 |
| (15) | |
| 1 伊勢神宮 3 熱田神宮 |
2 鳥羽上皇 4 後白河上皇 |
| (16) | |
| 1 英勝寺 3 壽福寺 |
2 海蔵寺 4 浄智寺 |
| 大庭御厨は、鎌倉権五郎景政が伊勢神宮に寄進した土地。 相模国最大の寄進地系荘園でした。 1144年(天養元年)には、源義朝が鎌倉郡内だと称して乱入し、大規模な収奪を行いました。 義朝の鎌倉之楯は亀谷(壽福寺付近)にあったといわれています。 |
| (13) 4 (14) 2 (15) 1 (16) 3 |
| 雪ノ下の大御堂にあった〔 ⒄ 〕は,〔 ⒅ 〕が父親の供養のために創建,奈良から仏師〔 ⒆ 〕を招いて,黄金の〔 ⒇ 〕像を造らせて安置し,盛大な儀式を行ったと伝えられる。 |
| (17) | |
| 1 勝長寿院 3 東勝寺 |
2 太平寺 4 永福寺 |
| (18) | |
| 1 源頼義 3 源義朝 |
2 源義家 4 源頼朝 |
| (19) | |
| 1 運慶 3 快慶 |
2 成朝 4 定朝 |
| (20) | |
| 1 大日如来 3 阿弥陀如来 |
2 薬師如来 4 釈迦如来 |
| 1185年(文治元年)、源頼朝は、父義朝の菩提を弔うため勝長寿院跡を創建。 後白河法皇から送られた義朝と義朝に仕えた鎌田政長(政清・政家)の首を葬ります。 本堂(阿弥陀堂)には、成朝(奈良仏師)によって彫られた「黄金の阿弥陀仏」が本尊として安置され、藤原為久によって「浄土瑞相二十五菩薩像」(壁画)が描かれたのだといいます。 |
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