鎌倉手帳(寺社散策)

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窟堂(いわやどう)
巌 窟 堂

編集:yoritomo-japan.com







窟不動


 窟堂(いわやどう)は、不動明王を祀る岩屋のお堂。

 源頼朝が鎌倉入りする前からあったと伝えられている。

 かつては、街道が山の上を通っていたため、岩屋も山の上にあったが、街道が山裾を通るようになったことや、大地震によって崩れたりしたことから下方へ移動したのだという。

 窟堂は、江戸期まで東隣にあった松源寺に管理されていた。

 松源寺は、頼朝が源氏再興を祈願した伊豆日金山の地蔵を模造した日金地蔵を祀った寺。

 頼朝の位牌も祀られていたという。

 明治の神仏分離により廃寺となり、頼朝の位牌は白旗神社(西御門)へ、日金地蔵は横須賀の東漸寺に移されている。

 日金地蔵鎌倉二十四地蔵の一つ。


日金山東光寺
リンクボタン日金山東光寺
(熱海市)
横須賀東漸寺
リンクボタン東漸寺
(横須賀市)


〜転々とした日金地蔵〜

 松源寺の日金地蔵は、長谷寺に移され、その後転々として、大正時代に横須賀にある東漸寺に移されたと伝えられている。





不動明王像
不動明王像

 当初の不動明王像は弘法大師の作といわれ、岩屋内部の壁面に彫られていたが、永い年月の間に風化してしまったため、後に彫られた石像が祀られたのだという。


窟堂
堂横の不動王像
窟堂
堂背後の岩屋
(岩窟)


 窟堂は『吾妻鏡』にも登場する。

 1188年(文治4年)正月、幕府御家人佐野太郎基綱宅の窟堂下の宅が焼亡。

 同じ年の10月、窟堂の聖阿弥陀仏房が勝長寿院に詣でた後、帰路の途中で急死し(84歳)、藁で火葬された。

 この頃、急死者が多くなっていることも書かれている。

 ※上の画像は堂横の不動明王像。



窟堂重軽石
重軽石
(おもかるいし)

 石を持ち上げてみて重ければ叶わない願い事で、軽ければ叶う願い事といわれている。






愛宕社
リンクボタン愛宕社

 窟堂の東側には愛宕社があって、さらにその東側に松源寺があったといわれている。
 愛宕社も松源寺に管理されていた。

愛宕社は数年前まであったが現在は撤去されている。



〜後白河法皇の四十九日法要〜

 『吾妻鏡』によれば、1192年(建久3年)5月8日、源頼朝が後白河法皇の四十九日法要を勝長寿院で行った際には、窟堂の僧も1名参列している。

 他は、鶴岡八幡宮20人、勝長寿院13人、伊豆山権現18人、箱根権現18人、大山寺3人、金目観音3人、高麗寺3人、岩殿寺2人、杉本寺1人、六所神社3人、慈光寺10人、浅草寺3人、真慈悲寺3人、飯泉観音2人、国分寺3人。



〜青蓮寺の鎖大師の伝説〜

 手広の青蓮寺の本尊「鎖大師」は、もとは鶴岡八幡宮供僧坊等覚院にあった。

 明治の神仏分離によって松源寺に移された後、ひとりで壽福寺へ行き、しばらく滞在していた。

 その後、青蓮寺の住職の夢枕に「迎えに来るように」とのお告げがあったため青蓮寺に移されたのだという。


☆伝説!松源寺の怪談☆

 ある晩、飴屋に水飴を1文買いにきた女がいた。
 次の晩も1文買っていった。

 女が買いにきてから6日目の晩に「明日からもう参りません」といって帰って行ったので、気になった亭主があとを追いかけたが、松源寺の墓場で見失ってしまった。

 すると、どこからか赤ん坊の泣き声がするので、墓場の中に入って行くと、桶のなかに女の死骸と赤ん坊がいた。

 臨月の女が死んで葬られたのだが、赤ん坊が生まれたので、乳の代わりに水飴をなめさせていたのだろう。

 水飴を買った銭は、六道銭として入れられた銭を使ったに違いないということで人々は噂したという。

 松源寺の墓は、廃寺となってから壽福寺に移されたという。

〜参考:京都の伝説〜
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