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| ☆狸が三門建設の勧進僧に☆ | 
|  建長寺三門を再建する際、和尚さんにお世話になった狸が、勧進僧に化け諸国を廻った。 しかし、いろんな所で自分のシッポを見られ、次第に「勧進僧の中に狸が化けた和尚がいる」との噂が広まる。 ある日、狸和尚は籠に乗った。 噂を聞いていた籠かきたちは、「もしかしてこの和尚が…」と考え、犬を連れてくると、その犬が和尚を噛み殺してしまった。 しばらくすると和尚は狸の姿に戻ったという。 その時に狸和尚が所持していたお金は、無事建長寺に届けられた。  | 
                

| ☆けんちん汁は建長汁か?☆ | 
|  禅宗寺院の料理を精進料理というが、「けんちん汁」もその精進料理。建長寺を開いた蘭渓道隆が、野菜の皮やヘタを無駄にしないように発案したのが「建長汁」。 これがなまって「けんちん汁」となったといわれる。 豆腐を崩して入れるのは、誤って落した豆腐を入れたことからきているらしい。 ちなみに、江戸時代の沢庵和尚(たくあん)が発明した漬物は「たくあん」である。  | 
                

| ☆「いざ!鎌倉」 謡曲「鉢の木」☆ | 
|  五代執権北条時頼が旅に出た際、大雪に見舞われたため、荒れ果てた家に泊めてもらった。 家主は客人が時頼とは気づかなかったが、暖をとるための薪もないことから、梅や松、桜の鉢の木をくべてくれた。 この時、家主は、今は落ちぶれているが「いざ!鎌倉」というときには、一番に馳せ参じる覚悟であることを時頼に話した。 後年、軍勢を集めた時頼は、言葉違わず一番に馳せ参じたこの武士に、薪にしてくれた鉢の木にちなんで、梅田、松枝、桜井を領地として与えたという。  | 
                

| ☆済田地蔵☆ | 
|  昔、済田左衛門という者が無実の罪で処刑されることになったが、討手が刀を振り下ろしても済田を斬ることができなかった。 地蔵を信仰していた済田が、髪の中に小さな地蔵像を納めていたからだという。 許された済田は、この像を心平寺の地蔵の頭の中に納めた。その後、建長寺が建てられ本尊地蔵の胎内に移されたらしい。  | 
                
| ☆兀菴普寧☆ | 
|  建長寺二世の兀菴普寧(ごったんふねい)という僧は、本尊地蔵菩薩に礼拝をしなかったという。 菩薩はまだ修行の身であり、自分は悟りを得た仏であるので、菩薩より位が上という理由のようである。 北条時頼の要請で建長寺に住持したが、時頼が死ぬと間もなく中国に帰ってしまったという。 かなり気難しい方で「兀庵」(ごったん)という名から「ごたごた」という言葉が生まれたといわれている(参考:浄智寺)。  | 
                
| ☆梶原施餓鬼☆ | 
|  建長寺では、毎年7月15日には「三門梶原施餓鬼会」が行われるが、何故、梶原施餓鬼があるのか? 施餓鬼会の日にある武士がやってきて、施餓鬼会が終わってしまったことに残念がっていたので、大覚禅師(蘭渓道隆)がもう一度行ってあげたところ、その武士は大変喜び「自分は梶原景時の霊である」といって帰ったという。 以後、施餓鬼会が終わったあと梶原施餓鬼を行うようになったという。  | 
                
| ☆笑い閻魔☆ | 
|  鎌倉時代を代表する仏師運慶は、瀕死の状況であったところを閻魔大王の像を彫ることでこの世に戻された。 運慶は、喜びのあまり圓應寺の閻魔大王を笑いながら彫ったため、出来上がった像も笑っているように見えることから「笑い閻魔」と呼ばれる。  | 
                

| ☆子どもを呑み込んだ閻魔大王☆ | 
|  圓應寺の閻魔大王が由比ヶ浜にいた頃の伝説。 ある日、病気の子どもを連れた父親が、閻魔大王に願いを叶えてもらうため、「聞こし召し下さい(「お聞き入れ下さい」の意。)」と手を合わせ、「あとで迎えにくる」といって、子どもを置いて帰ってしまった。 一方の閻魔大王は「お召し上がりください」といって子どもを置いていったと勘違いし、子どもを呑み込んでしまったそうだ。  | 
                

| ☆詫言地蔵☆ | 
| 圓應寺の詫言地蔵(わびごと)にお参りすると、お地蔵様が本人に代わって閻魔大王にお詫びしてくださり、閻魔大王のお許しを得ることができるといわれている。鎌倉二十四地蔵の一つ。 | 
| ☆山ノ内経俊の母と源頼朝☆ | 
|  山ノ内経俊は、代々源家に仕えてきたにもかかわらず、源頼朝が挙兵したときには平家方についたため、頼朝の怒りをかい死罪となるところであった。 経俊の母が頼朝に対して、父祖が源義家に仕えて以来、源家に尽くしてきたことを述べ、父祖の功績に免じて許しを乞うた。 頼朝は、石橋山の戦いの折に着用し、しかも経俊の放った矢が刺さったままの鎧を持ってこさせると、泣く泣く老母は立ち去ったが、頼朝は母の子を思う心に免じて許したという。  | 
                

| ☆大名を罰した天秀尼☆ | 
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                   天秀尼(東慶寺)が住職を勤めていたとき、会津若松藩四十万石の城主加藤明成の家来であった堀主水は、城主の非を幕府に訴えるため妻とともに会津を出奔した。 しかし、幕府に訴える前に明成に追われ、主水は高野山に逃げ、妻は東慶寺に逃げ込んだ(高野山は女人禁制のため)。 高野山から主水の引渡しを受けこれを斬殺した明成は、次に東慶寺に対し主水の妻の引渡しを迫った。 これに怒った天秀尼は、養母千姫を通じ江戸幕府三代将軍家光に訴え、明成の四十万石を没収させた。  | 
                
| ☆びっこ石(晴明石)☆ | 
|  昔、道路の真中に大きな石が埋まっていた。 この石を知らずに踏めば足が丈夫になり、知っていて踏めばびっこになるといわれていた。 現在は、八雲神社の境内に移されている。 なお、この石は晴明石とも呼ばれ、火難・災難よけの神の石といわれている。 晴明とは平安時代の陰陽師「安倍晴明」のこと。  | 
                


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