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鎌倉大仏の建立

編集:yoritomo-japan.com








 鎌倉大仏は、源頼朝の意志を受け継いだ侍女稲多野局が発起し、僧浄光が勧進し建立されたと伝えられている。

 建立場所に選ばれたのは「深沢の里」。

 しかし、鎌倉大仏建立の詳しいことは明らかではない。


鎌倉大仏


 最初の大仏は、僧浄光が諸国を勧進し、庶民から一人一文の浄財を集めて建立された木製のものだったのだという。

 『吾妻鏡』によれば、1238年(暦仁元年)3月23日、深沢の里で大仏の建立の工事が始まり、1243年(寛元元年)6月16日、勝長寿院の別当・良信を導師として大仏と大仏殿の落慶供養が行われている。

 しかし、1247年(宝治元年)、木製の大仏は台風で倒潰してしまった。

 その後、造られたのが現在の青銅製の大仏。

 1252年(建長4年)8月17日、青銅製の大仏の鋳造が開始されるが、その後の記録がないので、いつ完成したのかは不明。

 ただ、日蓮が1268年(文永5年)10月11日付けで「大仏殿別当あての書状」を書いていることから、それ以前には大仏の鋳造が終了し、大仏殿もこの頃には完成していたものと考えられる。


『鎌倉大仏縁起』によると、最初の大仏は、四代将軍藤原頼経が四条天皇の勅許を得て造立されたのだという。



リンクボタン鎌倉大仏造立を発起したという源頼朝の侍女・稲多野局の伝説

リンクボタン鎌倉大仏造立の勧進僧浄光の菩提を弔う阿弥陀如来像

リンクボタン丹治久友〜鎌倉大仏鋳造に携わった鋳物師と銅鐘〜



 鎌倉大仏は、現在では、「鎌倉の大仏」または「長谷の大仏」として親しまれているが、江戸時代までは深沢の里に造られたことから、「深沢の大仏」と呼ばれていた。

 運慶らの慶派の作風を保ちつつ、鎌倉で流行った宋の様式を取り入れた仏像で、下向きの目線や丸い背中は珍しい。



奈良の大仏と鎌倉の大仏
リンクボタン奈良の大仏と鎌倉の大仏









鎌倉大仏殿礎石
リンクボタン鎌倉大仏殿の礎石
(鎌倉大仏殿跡)
大仏殿勧進状
リンクボタン大仏殿勧進状


 建立された大仏は、大仏殿の中に安置された。

 鎌倉大仏の周囲に置かれている大きな石は、その礎石。


鎌倉大仏殿礎石
リンクボタン鎌倉大仏殿跡






鎌倉大仏の金箔
金箔が施されていた鎌倉大仏


 建立された当時の鎌倉大仏には、金箔が施されていた。

 現在でも頬の辺りに金箔が施されていた面影が残されている。





鎌倉大仏胎内
リンクボタン鎌倉大仏の胎内

 鎌倉大仏の鋳造には、かなり高度な技術が使われ、鋳造は30回以上繰り返えされて行われたと考えられている。

 胎内に入るとその鋳造方法を観察することができる。









〜誰が鋳造したのか?
いつ完成したのか?〜


 原型作者は不明だが、鋳造に当たっては、のちに建長寺の梵鐘を鋳造する物部重光が総指揮をとったものと考えられ、鋳工として大野五郎右ヱ門や丹治久友の名が伝えられている。

 丹治久友は、1264年(文永元年)に鋳造された東大寺塔頭真言院の梵鐘鋳造にも携わり、その鐘銘には「鋳物師新大仏寺大工」とある。

 また同年、鋳造された大和吉野山蔵王堂(金峯山寺)の鐘銘には「鎌倉新大仏鋳物師丹治久友」とあったのだという(鐘は現存しないが銘文の拓本が残されている。)。

 「新大仏」というのは、東大寺の大仏に対しての呼び名と考えられる。

 このことから、鎌倉大仏は1264年(文永元年)には完成していたという推測が可能となる。



リンクボタン丹治久友〜鎌倉大仏鋳造に携わった鋳物師と銅鐘〜

リンクボタン物部氏〜鎌倉大仏鋳造に携わった鋳物師と銅鐘〜





〜宋の銭で造られたかもしれない
鎌倉大仏〜


 鎌倉大仏の成分は、宋銭に近いものであることが判明している。

 ここから考えられることは、「宋銭を使って鎌倉大仏が鋳造された」か、あるいは、「宋銭を鋳造する技術と同じ技術が用いられた」ということ。

 『吾妻鏡』には、十二所の明王院の「洪鐘」を銅銭を使用して鋳造したことが記されている。

 鎌倉時代、我が国では銭の鋳造は行われておらず、使用されていたのは中国からの渡来銭だった。

 そして、『吾妻鏡』の記事からして、銭は通貨として使用されただけでなく、銅素材としても使用されていたことがわかる。





〜鎌倉大仏が建立された理由・・・〜

 鎌倉大仏は、どのような理由で建立されたのかは不明。

 源頼朝が大仏建立を願っていたという伝説が本当であれば、鎌倉への入口にあるという点から京への対抗意識とも考えられる。

 実際に、旅人はその大きさと京にはない鎌倉独特の宋風の仏像に驚いたという。

 また一方で、鎌倉大仏が造られた深沢の里は下層民が多く住む地であったとされ、鎌倉大仏が造られた時代には飢饉が続いていたことから、東大寺大仏(奈良の大仏)が庶民救済のために造られたのと同じように衆生救済のために造立されたとも考えられる。

 実際に、極楽寺忍性は、鎌倉大仏前に置かれた桑ヶ谷療養所で貧民に粥を施していた。



 鎌倉大仏が建立された頃、付近には死後に出会う十王を祀る円応寺(新居閻魔堂)があった。
 鎌倉大仏(極楽)は、長谷観音(救済)・円応寺(地獄)とともに浄土信仰に基づく情景を構成する寺院群の一つだったという説がある。



鎌倉大仏建立伝説


庶民に信仰された大仏様と観音様(okadoのブログ)





〜鶴岡八幡宮の本地仏という説〜

 金沢文庫の『大仏旨趣』によると、大仏建立の勧進を務めた浄光は、鶴岡八幡宮に参籠して阿弥陀仏を造るようお告げを受けた。

 八幡大菩薩の本地(本来の仏)は阿弥陀如来なのだといわれ、大仏は鶴岡八幡宮の本地仏として造立されたのだという。


鶴岡八幡宮と鎌倉大仏









鎌倉大仏
リンクボタン高徳院(鎌倉大仏)

 鎌倉大仏は、中国の宋朝様式の中にも日本風の意匠が認められる傑作。
 昭和33年2月8日、国宝に指定されている。


鎌倉市長谷4−2−28
0467(22)0703

江ノ電「長谷駅」から徒歩10分


鎌倉大仏建立伝説

鶴岡八幡宮と鎌倉大仏


江ノ電








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