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息障院(そくしょういん)は、吉見町一帯を領有していた源範頼の館跡と伝えられている地に建つ寺院。 天平年間(729−749)に行基による開創とも、大同年間(806−810)に坂上田村麻呂による開創とも伝えられている。 939年(天慶2年)、自らを新皇と称して反乱を起こした平将門を調伏するための護摩を修し、その功によって息障院の号を賜ったのだという。 正式名称は、岩殿山息障院光明寺。 真言宗智山派。 本尊の不動明王坐像は、鎌倉時代のもので埼玉県内最古の不動明王(県指定文化財)。 もとは、坂東札所の安楽寺(吉見観音)と同じ寺院だったが、室町時代に源範頼館跡に移転したのだという。 息障院がある一帯が、源範頼の居館跡と伝えられている。 |
源範頼は、源義朝の六男。 1150年(久安6年)頃の誕生といわれる。 1159年(平治元年)の平治の乱で父義朝が平清盛に敗れて尾張国野間で最期を遂げると、武蔵国比企郡の安楽寺(吉見観音)に隠れ住んだのだという。 兄源頼朝の乳母を務めた比企尼をはじめとする比企一族に庇護されていたともいわれる。 1180年(治承4年)、頼朝が鎌倉を本拠とした後も吉見に住んでいたといわれ、館跡一帯は御所と呼ばれるようになったのだとか。 |
※ | 九条兼実の日記『玉葉』は、範頼は幼少期に京官人の藤原範季に養育されていたと伝えている。 |
※ | 範頼は遠江国の蒲御厨で生まれ育ったことから蒲冠者と呼ばれる(蒲神明宮)。 |
安楽寺は、1159年(平治元年)の平治の乱後、範頼が隠れ住んだと伝えられる寺。 |
兄頼朝の下で、木曽義仲追討・一ノ谷の戦い・壇ノ浦の戦いで活躍した範頼だったが、1193年(建久4年)、謀反の疑いをかけられ伊豆の修禅寺に幽閉され、間もなく梶原景時らに攻められて自害したのだと伝えられる。 ただ、修禅寺から逃れて生き延びたという伝説が各地に残されいる。 |
北本市石戸宿の蒲桜は、落ち延びた範頼の杖が根付いたものといわれている。 |
横浜市金沢区の太寧寺は、範頼が自害した寺と伝えられている。 |
範頼の妻は安達盛長の娘で、比企尼の長女丹後内侍が産んだ子。 息障院のある吉見町と荒川を挟んで隣接する鴻巣市には盛長館があったといわれ、北本市の高尾阿弥陀堂は範頼の妻亀御前を供養するために建てられたと伝えられている。 1193年(建久4年)、範頼が謀反の罪で修禅寺に流されると、比企尼は曾孫の範円と源昭の助命を嘆願。 助命された範円は横見郡吉見庄を分与され子孫は吉見氏を称するようになり、源昭は慈光寺や深大寺の別当になったのだと伝えられている。 |
放光寺は、安達盛長の館跡と伝えられている地に建てられている寺。 |
高尾阿弥陀堂は、範頼の妻亀御前(盛長の娘)を供養するために建てられたと伝えられている。 |
慈光寺は、源頼朝が伊豆の流人だった頃から信仰していた観音霊場。 助命された範円と源昭は、慈光寺に身を置き、別当を勤めたとも伝えられる。 |
東京では浅草寺に次ぐ古刹・深大寺は、源氏の尊崇を受けて興隆した寺。 範円と源昭は深大寺に住み、源昭は慈光寺と深大寺の別当を兼ねていたとも伝えられる。 |
曽我兄弟の仇討ちをきっかけに謀反を疑われて伊豆の修禅寺に流された範頼。 |
埼玉県比企郡吉見町御所146−1 |
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