1180年(治承4年)5月26日、平等院の戦いで平家打倒の令旨を発した以仁王が討たれると、平清盛は令旨を受けた源氏を全て滅ぼすよう命令を出します。 6月19日、三善康信からの使者が北条館に到着し、源頼朝にもそのことが伝えられます。 そして、源氏の正嫡である頼朝は特に危険であることから、奥州へ逃れるように伝えたといいます。 しかし、頼朝はこの報告によって源氏再興の挙兵を決意したものと考えられています。 6月27日には、大番役の帰りに三浦義澄と千葉胤頼が北条館を訪れます。 挙兵について話し合われたことと思われますが、詳しい事は定かではありません。 |
※ | 三善康信は、頼朝の乳母の妹を母としていたことから、頼朝が伊豆に流されている間、月に三度、京都の様子を知らせていました。 |
※ | 三浦義澄は三浦義明の嫡男。千葉胤頼は千葉常胤の六男。 |
頼朝は7月4日、走湯権現(伊豆山権現)の文陽房覚淵を北条館に呼び出しています。 頼朝は、挙兵前に法華経を千回読むつもりでいたようですが、それを達成することが難しくなりました。 そこで「たとえば八百回読んだとしたら功徳をつむことはできるのか?」 と覚淵に尋ねたといいます。 すると覚淵は「八百回でもご利益はあるでしょう」と答えたそうです。 |
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