|
成田山新勝寺は、940年(天慶3年)、寛朝僧正によって創建された真言宗智山派の寺院。 本尊は不動明王。 |
939年(天慶2年)、東国で平将門が反乱を起こすと、朱雀天皇は寛朝に将門調伏の密勅を下した。 寛朝は神護寺の不動明王(弘法大師作)を奉じて房総半島へ渡り、940年(天慶3年)、成田の地で21日間にわたって護摩焚き祈願を行った。 その最後の日に将門が藤原秀郷・平貞盛によって滅ぼされ、寛朝が都へ帰ろうとすると、不動明王が成田の地に留まるよう告げたのだという。 そのお告げによって建てられた神護新勝寺が成田山新勝寺の始まりと伝えられている。 その後、寛朝は、仁和寺の別当、東寺の長者、西寺の別当となり、日本で3人目の大僧正となる。 989年(永祚元年)には、円融天皇の命により京都広沢に遍照寺を建立した。 |
神護寺明王堂 (京都) |
神田明神 (京都) |
将門調伏のための不動明王は神護寺の明王堂に置かれていた。 神田明神は、将門の首が晒された地に建てられている。 |
平将門は、桓武天皇から5代目の子孫。 平姓を授けられた高望王の三男で下総国を本拠としていた平良将の子。 一族間の争いに勝利し、次第にその勢力を拡げていくが、それが謀反とみなされ、やがて朱雀天皇に対抗して新皇を称するようになる。 940年(天慶3年)2月14日、藤原秀郷と平貞盛によって鎮圧された。 |
将門塚 (東京都千代田区) |
神田明神 (東京千代田区) |
将門塚は、京都から飛んで来た将門の首級が葬られた地。 のちに将門は神田明神に祀られた。 |
成田山新勝寺は、源氏との関係も深く、1063年(康平3年)に源頼義が本堂を再建。 1180年(治承4年)には源頼朝が平家追討の祈願を行ったのだと伝えられ、1188年(文治4年)には千葉常胤が本堂を再建しているのだという。 |
総門 |
仁王門 |
大本堂 |
三重塔 |
鐘楼 |
一切経堂 |
釈迦堂 |
額堂 |
開山堂 |
光明堂 |
奥之院 |
清瀧権現堂・ 妙見宮 |
平和大塔 |
成田山公園 |
2016年(平成28年)、 「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」 ―佐倉・成田・佐原・銚子:百万都市江戸を支えた江戸近郊の四つの代表的町並み群― が日本遺産に認定されている。 |
千葉県成田市成田1番地 京成電鉄「京成成田駅またはJR「成田駅」より徒歩10分 |
|