鎌倉手帳(寺社散策)

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鎌倉伝説集その4

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☆乱橋の大喧嘩☆

 英勝寺の召使三人が潮干狩りかなにかの帰りに、乱橋付近の酒屋で先客八人と喧嘩となり、召使三人は八人に取り押さえられ縄をうたれてしまった。

 問題はここからで、水戸様のお寺と呼ばれる英勝寺はカンカンに怒って、江戸表に訴えるという騒ぎとなってしまった。

 八人は平謝りし始末書をとられたという。


乱橋
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☆文覚上人☆

 補陀洛寺開山の文覚上人は、もとは遠藤盛遠という武士であった。

 渡辺(源)渡の妻袈裟御前に懸想し、誤って殺してしまったことから、罪を償うために出家し、熊野山中で修行を積んだといわれる。

 のちに、後白河法皇神護寺再興の勧進を断られ、そのことに対する悪口を言ったため、後白河法皇の怒りをかい伊豆に流された。

 その時に源頼朝と出会っているようで、頼朝挙兵を促したとされている(参考:文覚上人屋敷跡 毘沙門堂(伊豆韮山))。


補陀洛寺
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☆繁栄稲荷大明神☆

 光明寺開山の然阿良忠がまだ佐助にいたころ、子狐を助けた。

 すると夢に親狐が現れ、お礼にと「薬種袋」を残していった。

 鎌倉に悪病が流行した折、この時の夢のお告げに従って薬種を蒔くと、3日の内に成長し、病魔がたちまちに退散したという。


光明寺繁栄稲荷大明神
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☆善導大師像☆

 光明寺本殿には、開山の良忠が師の聖光から譲り受けたという善導大師像が安置されている。

 善導大師とは、中国(唐)での浄土宗の開祖。

 諸国を行脚に出た良忠は、持ち歩くのに大変なので、善導大師像を筑後川に流したところ由比ヶ浜に漂着したという伝説がある。



☆和賀江嶋弁財天像☆

 光明寺本殿の弁財天像は江ノ島奥の院にあったが、大嵐によって海に流され、光明寺に近い浜に打ち上げられた。

 弁財天像は、いったん江ノ島に戻されたが、善導大師から念仏の話を聞きたいというお告げがあったので光明寺に安置することになったという。


光明寺
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☆蟹の恩返し☆

 弁ヶ谷の畑の中には「蟹の宮」と呼ばれる祠があった。

 子どもたちが捕まえた紫色の大きな蟹を、かわいそうだからといって土地の百姓が海に放してやった。

 すると、この蟹が、ある旱りの年に、この百姓の畑だけに雨を降られてくれた。

 以後、雨乞いの参詣者が訪れるようになったという。祠は明治末ころまであったという。


弁ヶ谷
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鎌倉十井「六角ノ井」

 保元の乱で敗れた源為朝(義朝の弟)は、腕の筋を切られ伊豆大島に流された。

 弓の名手であった為朝が自分の力を試すために、配流先の大島から光明寺の裏にある天照山めがけて放った矢がこの井戸に落ちたという。

 井戸は八角であるが鎌倉側に六角、小坪側に二角であることから「六角ノ井」と呼ばれる。

 別名を「矢の根ノ井」というが、これは、村人が矢の根を拾い上げると水の質が悪くなったので、元に戻したところ、もとのような清水が涌き出るようになったという伝説からこの名がついた。

 現在も鏃が井戸の中段にまつられているようである。

 鎌倉十井の一つ。


六角ノ井
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