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収 玄 寺

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鎌倉・収玄寺


 収玄寺は、二代執権北条義時の孫で江間光時(北条光時:名越流)に仕えた四条金吾(四条頼基)の屋敷跡に建てられた「収玄庵」をはじまりとする。

 文政年間(1818年〜1829年)、荒れ果てていた庵を安国論寺の日勇が中興したと伝えられている。

 金吾は熱心な日蓮信者で、日蓮の龍ノ口法難の際には、切腹覚悟で刑場に向ったとされる。

 本堂には、日蓮聖人立像が安置され、その脇に金吾夫妻の像が安置されている。

 境内に建てられている「四条金吾邸址」の石碑は、日露戦争で連合艦隊を率いた東郷平八郎が揮毫したもの。



開山 妙詣尼
開基 日勇
本尊 久遠の本師釈迦牟尼仏
日蓮聖人尊定の曼荼羅





収玄寺・日勇
日勇の供養塔


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収玄寺


 四条金吾の本名は「四条頼基」。

 左衛門尉であったことから唐名で「金吾」と呼ばれた。

 「収玄」は金吾の法名「収玄院日頼」に由来するもの。

 現在の本堂は大正12年に建てられたもので、その時に「収玄庵」から「収玄寺」と改められている。



四条金吾屋鋪の碑
四条金吾屋鋪の碑


四条金吾邸址碑
東郷平八郎揮毫





〜江間光時と四条金吾〜

 江間光時(北条光時)は、北条朝時から始まる名越氏の一族。

 名越光時とも呼ばれる。

 1246年(寛元4年)、執権北条時頼に対する謀反の疑いで、伊豆の江間に流されたことによって「江間光時」と呼ばれた(参考:宮騒動)。

 1262年(弘長2年)、鎌倉に入った叡尊(西大寺流律宗)から受戒(参考:新清涼寺釈迦堂)。

 一方、四条金吾は、名越氏の家臣。

 1277年(建治3年)、日蓮の弟子三位坊日行が、極楽寺忍性の下にいた天台宗の僧竜像坊を論破した「桑ヶ谷問答」では、竜像坊から、金吾が徒党を組んで乱入して法座を乱したとの讒言があったことから、光時より法華経を捨てなければ領地を没収するとの命が下った。

 金吾から相談された日蓮は、光時に対し「頼基陳情」を書いたと伝えられている(日蓮の考えに感動した金吾は、この陳情を光時には提出せず、法華経信仰と日蓮への絶対帰依を誓ったといわれている。)。

 その後、光時が病に罹った際、医学の心得のある金吾が治療を施したことにより快方に向かったことから、没収されていた領地が返還されたという。


収玄寺








〜夏の夜を彩る光のイベント〜
長谷の灯かり




収玄寺
収玄寺

鎌倉市長谷2−15−12
0467(25)3238

江ノ電「長谷駅」からすぐ。


江ノ電で鎌倉



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