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| 明治の神仏分離までの伊豆山(伊豆山神社)は、天台宗と真言宗が寺院が併存する神仏習合の聖地。 現在は伊豆山神社から分離された真言宗の般若院が残されているが、かつては天台宗系の上常行堂と下常行堂もあった。 しかし、下常行堂は1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めで焼失。 上常行堂は近代まで存続していましたが廃寺となっている。 上常行堂と下常行堂の本尊は木造阿弥陀如来坐像(宝冠阿弥陀)。 下常行堂にあった阿弥陀如来は、運慶とともに東大寺の金剛力士像を造立した快慶の宝冠阿弥陀如来坐像。 現在は、大正・昭和期の実業家金本耕三(耕三寺耕三)に収集され、耕三が広島県尾道市に開いた耕三寺の所蔵となっている。 |
| 伊豆山の下常行堂は、1197年(建久8年)に焼失した後、1206年(建永元年)に再建されたが、その時、1201年(建仁元年)に京都で造立された快慶の阿弥陀如来像を迎え入れたのだという。 運慶は北条時政・和田義盛・北条義時・北条政子などに依頼により東国で多くの造仏に携わったが、東国で快慶の造仏という確証のあるものは、伊豆山の阿弥陀如来と栃木県足利市真教寺の阿弥陀如来のみ。 伊豆山と快慶の接点は、源頼朝の信任を得て伊豆山の別当をつとめた天台僧の源延の存在が指摘されている。 |
| 上常行堂にあった阿弥陀如来は、神仏分離後、北条政子建立と伝えられる逢初地蔵堂に移されていたが、現在は伊豆山神社境内にある伊豆山郷土資料館に収蔵されている。 |
| 常行堂と 安阿弥陀仏と呼ばれた快慶 |
| 常行堂は、天台宗で常行三昧を修するための堂舎。 常行三昧は、堂内に安置された阿弥陀仏のまわりを常に歩行し、その仏名を唱え、心に仏を念ずる行法。 快慶は阿弥陀如来の作例が多く、法号は「安阿弥陀仏」(あんなみだぶつ)。 その作風は「安阿弥様」(あんなみよう)と呼ばれる。 |

| 鎌倉の教恩寺の阿弥陀如来像は、源頼朝が一ノ谷の戦いで捕らえられた平重衡に与えたといわれるもの。 運慶作と伝えられているが、作風からすると快慶あるいはその周辺の仏師の作ではないかと考えられている。 |
| 走湯山上常行堂への寄進状写 |
| 伊豆山神社の「走湯山上常行堂への寄進状写」は、治承7年7月25日に走湯山座主が相模国「長墓郷」を走湯山上常行堂に寄進するという文書の写し。 治承7年は寿永2年(1183年)。 寄進状に書かれた花押は、源頼朝の異母弟・阿野全成のものという可能性があるらしい・・・ |

| 伊豆山神社は、古くは走湯大権現とも呼ばれ源頼朝と北条政子が崇敬した神社。 境内には、二人の腰掛け石が残されている。 |
| 静岡県熱海市伊豆山上野地708番地1 JR熱海駅からバスで7分 |
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