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現在の東京駅のある地は、かつて武蔵国豊嶋郡江戸郷前島村と呼ばれていた。 |
江戸という名称が初めて登場する資料は『吾妻鏡』。 地名としてではなく江戸重長という武将の名だった。 重長は、秩父氏の一族江戸氏の二代当主で、1180年(治承4年)、源頼朝の鎌倉入りに従った武将。 浅草や品川と並んで船舶の寄港地として栄え、物資の集積地だった江戸前島(現在の日本橋から銀座にかけて)を支配していたものと考えられている。 頼朝からは「江戸太郎八ヵ国の大福長者」と称されていたことから、商人としても富を蓄えていたらしい。 『吾妻鏡』には記されていないが、下総国と武蔵国の境にあたる「隅田の渡し」を管理していた重長は、頼朝の隅田川渡河に協力しているのだという。 |
江戸氏は武蔵国豊嶋郡江戸郷を本拠とした。 平安時代末、江戸郷を相続した江戸重長の父重継は、後の江戸城本丸、二の丸周辺に居館を構えていたのだという。 慶元寺は、江戸重長が江戸城紅葉山(現在の皇居)に創建したことに始まる寺院。 |
正嘉年間(1257〜1259)、全国規模の飢饉が発生(正嘉の飢饉)。 飢餓状態は長く続き、疫病の流行も続いたことから、江戸郷前島村では領民不在の事態になる。 経営できなくなった地頭の江戸長重は、1261年(弘長元年)に北条得宗家に江戸前島を寄進。 1315年(正和4年)までには北条得宗家から円覚寺に寄進されたのだという。 以来、円覚寺は商品の流通や商業を活性化させる港湾機能を維持してきた。 |
1590年(天正18年)の小田原征伐後、関東移封となった徳川家康が江戸に入ると・・・ 豊臣秀吉は円覚寺に江戸前島領の安堵状を与えていたが、家康は円覚寺の権利を横領したものと考えられている。 当時の円覚寺領の範囲は明らかではないが、江戸幕府は江戸前島の史実をひた隠しにしたのだという。 |
※ | 家康は従来の寺社領を没収し、規模を縮小して新たな寺領を寄進したのだという。 |
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1603年(慶長8年)、江戸に幕府を開き、江戸城の土木・建築工事(大拡張工事)を全国の諸大名に命じた(天下普請)。 半島のようになっていた江戸前島は江戸城と陸続きになり、現在の東京駅周辺の外堀から千鳥ガ淵に至る江戸城が完成している。 |
円覚寺は、八代執権北条時宗が宋の禅僧無学祖元を招いて開かれた。 臨済宗円覚寺派大本山。 鎌倉五山の第二位。 |
鎌倉市山ノ内409 0467(22)0478 JR北鎌倉駅下車すぐ |
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