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小谷城は、1516年(永正13年)、北近江の戦国大名・浅井亮政によって小谷山に築かれた城(築城年には諸説ある。)。 以後、亮政・久政・長政の浅井氏三代が居城となった。 三代長政は織田信長の妹お市の方を継室に迎え、全盛を築くが・・・ 信長と越前国の浅倉義景の対立が深まると、長政は信長を裏切って義景に与することに。 1570年(元亀元年)の金ヶ崎の戦いでは織田・徳川軍の背後から攻めかけて撤退させたが、同年の姉川の戦いで敗れ、1573年(天正元年)には小谷城を攻められて父久政とともに自刃し、浅井氏は滅亡(小谷城の戦い)。 小谷城は羽柴秀吉に与えられたが、秀吉は居城とせず、今浜(長浜)に新たな城を築いたため廃城となった。 |
徳勝寺は、初代小谷城主の浅井亮政が菩提寺とした寺。 境内には亮政・久政・長政三代の墓が建てられている。 |
長政の妻お市の方は、長政との間にもうけた三人の娘(茶々・お初・お江)とともに救出され、岐阜城で暮らしていたといわれている。 1582年(天正10年)、本能寺で信長が横死した後(本能寺の変)、越前国北ノ庄の柴田勝家と再婚。 しかし・・・ 翌年、勝家が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れると、北ノ庄城で勝家とともに自害した(享年37)。 |
茶々・お初・お江は、秀吉に預けられたのだという。 のちに長女の茶々(淀殿)は秀吉の側室に、二女のお初(常高院)は京極高次に嫁ぎ、三女のお江(崇源院)は徳川秀忠に嫁いでいる。 |
浅井氏滅亡後、羽柴秀吉はその功績により浅井氏の旧領三郡を与えられ、長浜城を築いた。 長浜城は、長政が竹生島の竹生島神社や宝厳寺の復旧資材として寄進した資材や小谷城で使われていた資材を流用して築城されたのだという。 |
知善院は、浅井長政が滅亡するまで小谷城下にあった寺。 淀殿から次妹お初の夫京極高次に宛てた自筆の消息(書簡)が残されている。 |
小谷城跡 |
滋賀県長浜市小谷郡上町、湖北町伊部 JR北陸本線 「河毛駅」下車 徒歩40分 |
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