鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉のアジサイ 鎌倉あじさい物語



鎌倉:鉄ノ井から出てきた
伝説の鉄観音

(東京人形町:大観音寺)

編集:yoritomo-japan.com







鉄観音像


 大観音寺の本尊・鉄観音像は、頭部のみの像で、1.7メートルの鋳鉄製。

 鎌倉時代に製作された鉄仏の中でも秀作とされ、1972年(昭和47年)に東京都の有形文化財に指定されている。

 もともとは鎌倉の扇ヶ谷にあった新清水寺の本尊。

 1258年(正嘉2年)1月17日の火災により寺は焼失、鉄観音像の行方もわからなくなっていたが、江戸時代の1699年(元禄12年)、鎌倉の「鉄ノ井」から頭だけが掘り出され、明治維新までは、「鉄ノ井」の前にあった鉄観音堂に安置されていた。

 明治になると神仏分離令による廃仏毀釈の流れの中、由比ヶ浜に捨てられるところを、船で東京深川の御船蔵前に運ばれたとされている。

 その後、大観音寺へ移され、毎月17日に開帳されている。


 新清水寺は、京都の清水観音を信仰していた北条政子が創建した寺院。






☆焼失した新清水寺☆

 『吾妻鏡』によると・・・

 1258年(正嘉2年)正月17日午前2時頃、安達泰盛の甘縄邸から出火。

 南風にあおられた火は、薬師堂の裏山を越えて壽福寺に至り、総門、仏殿、庫裡、方丈などの堂宇を焼き尽くし、さらに、新清水寺窟堂、その辺りの民家、鶴岡八幡宮の宝蔵、別当坊などが焼き尽くされましたといいます。


☆伝説!鉄観音像☆

 火災によって、新清水寺の鉄観音像も鉄の塊になってしまったかと思われましたが、不思議な事が起こります。

 新清水寺が焼け落ちたとき、突如強い光が発せられ、巽の方角に飛び去っていきました。

 翌日、村人が火災の跡片づけをすると、焼けた観音様の胴体はありましたが、首がみつからなかったといいます。

 人々はあの光が観音様だったと噂したそうです。

 数年が経ち、雪ノ下の井戸が、目を洗えば治り、常用すれば風邪をひかず、胃腸病や傷も治るという評判になります。

 そのうち、観音様のお首が井戸の中にあるに違いないという話になり、井戸替えのときに井の底を掘ると観音様のお首が現れました。

 地上に引き上げられたお首は、新しく建てられた「鉄観音堂」に安置され、井戸は「鉄ノ井」と呼ばれるようになり、参詣者が絶えなかったそうです。


鎌倉十井:鉄ノ井
リンクボタン鉄ノ井
(鎌倉市)


 江戸時代には、観光絵図にも載せられ、大いに賑わった「鉄ノ井」と「鉄観音堂」でしたが・・・

  明治になると神仏分離令が出され、それに伴う廃仏毀釈の運動により、鎌倉でも多くの仏像が破壊されたり捨てられたりしたそうです。

 鉄観音像も例外ではありませんでした。

 拝する人も少なくなり、鉄観音堂も倒れかけていたといいます。

 1873年(明治6年)3月、二人の骨董商が鉄観音像を見て「これは儲かる」と考え、坂ノ下海岸から小舟に乗せて東京へ運ぶことにしました。

 二人は、東京へ着くまでの間、津々浦々の港に寄って鉄観音像の開帳を行い、旅費を稼いだそうです。

 しかし・・・観音崎をまわって東京湾を目指すと、大雨が降り出し、突風に襲われてしまいます。

 鉄観音像を載せた小舟は笹舟のように回転していたそうです。

 小舟には海水が入り込み、桶で掻い出しますが間に合いません。

 二人は、このままでは沈没してしまうので、鉄観音像を捨てようと考えますが、二人で動かせるほど軽い仏像ではありません。

 終いには、二人は、仲間割れして喧嘩をはじめてしまいますが、船頭は鉄観音像を祈っていたといいます。

 二人も船頭にならって鉄観音像に祈ると、小舟は沈没を免れ、深川の御船蔵前に漂着したそうです。

 その後、鉄観音像は、1876年(明治9年)に建てられた仮堂に安置され、現在東京人形町にある大観音寺のはじまりとなったと伝えられています。







大観音寺
リンクボタン大観音寺

東京都中央区日本橋人形町1−18−9
03−3667−7989

人形町駅から徒歩2分






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