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長い戦乱によって苦しい生活をしていた人々を救おうと祈っていた源頼朝は、1185年(文治元年:巳の年)巳の月巳の日、枕元に現れた老人にこう告げられた。 「ここから西北の方角に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧きだしています。 そこは清浄な地で福の神が住み、その水を使っています。 この霊水で絶えず神仏を祀れば、人々は自然に信仰心を起こし、悪魔や邪鬼も退散して、国内はすぐに平穏に治まります。 私こそは隠れ里の主である宇賀福神です」 夢のお告げのとおり西北の地に泉を見つけた頼朝は、そこに岩窟を掘らせ宇賀福神を祀ったのだという。 |
1185年(文治元年) と言えば・・・ |
『吾妻鏡』によると、 3月24日、頼朝の異母弟・源義経が壇ノ浦で平家を滅ぼしている。 平家に奉じられていた安徳天皇も入水。 その翌月(4月)は巳の月。 『吾妻鏡』によると、 4月11日、頼朝のもとに義経からの伝令が到着し、平家滅亡が伝えられている。 そして・・・ 巳の日の4月28日、頼朝のもとには近江国の豪族・源重遠が参上。 重遠は先祖代々の家臣。 重遠は頼朝に、源氏の権威快復の喜びを述べる一方で、 「京都に駐屯している東国武士たちは未だ戦争気分が収まらず、兵糧や兵役を責め立てるなどの乱暴狼藉を働き、皆が嘆いている」 と伝えている。 頼朝は重遠の訴えを受け入れ、安心して暮らせるよう約束したのだとか。 宇賀神が頼朝の夢枕に現われたのは、この日の晩だったのかも・・・ 参考までに・・・ 銭洗弁財天には、五代執権北条時頼が霊水で銭を洗い、一家繁栄と子孫長久を祈ったという伝説もある。 時頼が銭を洗ったのは巳の年の1257年(正嘉元年)。 この年は、嫡子の時宗が元服した年。 |
鶴岡八幡宮には宇賀弁財天が祀られていた? |
鎌倉市佐助2-25-16 0467(25)1081 鎌倉駅西口から徒歩20分 |
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