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| 地蔵菩薩と毘沙門天 |
| 清水寺の本尊は十一面千手観世音菩薩。 千手観音の脇侍には婆藪仙人と大弁功徳天を置くのが基本ともいわれますが、清水寺の脇侍は地蔵菩薩と毘沙門天。 これには、清水寺を創建した坂上田村麻呂の伝説が関係しているようです。 『清水寺縁起』によると・・・ 蝦夷の地で信仰していた清水観音に祈り続けながら戦っていたという坂上田村麻呂。 その前に現れたのが僧侶と老翁。 僧侶が敵の矢を防ぎ、老翁が敵に次々と矢を射かけてくれたおかげで蝦夷を打ち破ることができたのだといいます。 僧侶と老翁は、田村麻呂が蝦夷征討に赴く際、開山の延鎮が必勝祈願のために彫った地蔵菩薩と毘沙門天だったのだとか。 そのため清水寺の千手観音の脇侍は、地蔵菩薩と毘沙門天なのだと伝えられています。 別名「勝軍地蔵」・「勝敵毘沙門」。 |
| 毘沙門天は北方を守護する武神ですので甲冑を身に着けているのが通常ですが・・・ |
| 清水寺では、一般的に左手に宝珠を右手に錫杖を持つ地蔵菩薩も、右手に剣を持ち、頭部には獅子頭の兜をかぶり鎧に身を包んでいる姿のようです。 |
| 田村麻呂を助けた木馬 |
| 伝説によると・・・ 蝦夷征討で坂上田村麻呂は、延鎮が地蔵菩薩と毘沙門天を彫った残りの木切れで作った100頭の木馬を持っていったのだといいます。 この木馬が戦場で本物の馬となり、田村麻呂を助けたのだとか。 |
| 一説によると・・・ 福島県三春町に伝わる伝統的な木製の馬の玩具「三春駒」(みはるこま)は、この伝説から作られるようになったとも。 |
| 清水寺は、778年(宝亀9年)、奈良興福寺の延鎮が千手観音像を音羽の滝の上に祀ったことに始まります。 798年(延暦17年)に蝦夷を平定して凱旋した坂上田村麻呂は、帰依していた延鎮に自邸を仏殿として寄進し、千手観音像と脇侍の地蔵菩薩と毘沙門天(千手三尊)を祀ったのだと伝えられています。 |
| 本堂内々陣には、三基の厨子が置かれ、中央の厨子に千手観音立像、向かって右側の厨子には毘沙門天立像、左側の厨子には地蔵菩薩立像が安置され、いずれも秘仏(次回の開帳は2033年の予定)。 |
| 千日詣りは、観音信仰の広まりとともに設けられた特別な縁日。 期間中の8月9日から16日には、内々陣の特別拝観が行われる。 |
| 開山の延鎮像を安置する開山堂には坂上田村麻呂像も安置。 |
| アテルイ・モレの碑は、801年(延暦20年)の蝦夷討伐で坂上田村麻呂と戦った蝦夷の首長とその母の顕彰碑。 |

| 清水の舞台で知られる清水寺。西国観音霊場の第十六番札所。 源頼朝は、三歳のときに清水寺から下された二寸銀の聖観音像を守り本尊とし、1180年(治承4年)の挙兵の際には、髷の中に納めていたという(参考:鎌倉・源頼朝墓)。 |
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