鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉殿の13人 二代執権北条義時
特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編 特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


「鎌倉殿の13人」
〜源頼朝が蛭ヶ小島で見た夢〜


編集:yoritomo-japan.com








伊豆で蛭ヶ小島に流されていた源頼朝の夢枕に、「かくれ里の稲荷」という神霊が立ち、挙兵を勧めた。頼朝はこの託宣に従い挙兵、戦いに勝利したという。のちに、この「かくれ里」の地で祠を見つけた頼朝は、だれに命じて社(後の佐助稲荷神社)を建てさせたか。
(第9回鎌倉検定試験2級)

1 畠山重忠
3 和田義盛
2 工藤祐経
4 比企能員



佐助稲荷神社
リンクボタン佐助稲荷神社

 伝説によると・・・

 源頼朝が、まだ伊豆国蛭ヶ小島の流人だった頃、病に臥していた頼朝の夢枕に白髯の老人が現れます。

 そして、

 「汝は平家を討つ天命を負うものである。早急に挙兵して天下を統一すべし」

 と告げ、 頼朝の問いかけには、

 「鎌倉隠里(かくれさと)の稲荷大明神」

 と名乗って姿を消したのだといいます。

 1180年(治承4年)、夢のお告げによって挙兵した頼朝は、それから50日ほどで鎌倉入りを果たします。

 1185年(元暦2年)には壇ノ浦で平家を滅ぼし、大倉の御所に武家政権の府を誕生させます。

 そして、西方の霊地に祠が発見されると、畠山重忠に命じて社を造らせました。

 年代ははっきりしませんが、建久年間(1190〜99)のことといわれています。

 それが、現在の佐助稲荷神社なのだと伝えられています。


蛭ヶ小島
リンクボタン蛭ヶ小島
(伊豆の国市)

 1159年(平治元年)の平治の乱平清盛に敗れ、翌年、伊豆国蛭ヶ小島に流された源頼朝は、尾張国野間で暗殺された父義朝の菩提を弔いながら、約20年間を過ごしました。

 流人時代の頼朝は、「佐殿」(すけどの)と呼ばれていました。

 初陣を果たした平治の乱で、一時、右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)に任ぜられたためです。

 すぐに平清盛に敗れて解官されてしまいますが、伊豆では「佐殿」と呼ばれ続けていたようです。

 佐助稲荷神社の「佐助」という名には、「佐殿を助けた」という意味があるのだとか・・・



佐助稲荷神社

畠山重忠


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