鎌倉手帳(寺社散策)

大塔宮と呼ばれた護良親王
なぜ大塔宮なのか?


編集:yoritomo-japan.com







比叡山
大塔宮護良親王御遺跡の碑
比叡山延暦寺


 毎年11月に実施されている鎌倉検定には次のような問題が何回か出題されている。


 鎌倉宮の祭神護良親王が「大塔宮」と呼ばれるようになったのはなぜか。

大塔という場所に居を構えていたから

父である後醍醐天皇から名付けられたから

若いころ比叡山延暦寺の大塔に入室していたから

大塔という場所で亡くなったから


 正解は3。

 ただ・・・

 比叡山延暦寺の大塔って何なのでしょう???

 東塔のことでしょうか・・・





〜護良親王が入室した梶井門跡〜

 護良親王は1308年(延慶元年)に後醍醐天皇の皇子として生まれる。

 6歳の頃に尊雲法親王として梶井門跡(現在の三千院)に入室し、1327年(嘉暦2年)には、天台座主となり大塔宮と敬称されたのだという。

 三千院は、延暦年間に最澄が比叡山東塔に開いた円融院(円融房)がその始まり。

 三千院と呼ばれるようになったのは、明治に入ってからで、それまでは「円徳院」「梨本門跡」「梶井宮」「梶井門跡」などと呼ばれていた。

 1086年(応徳3年)、坂本の梶井を本拠として「梶井宮」と称されるようになり、1130年(大治5年)には、堀河天皇の皇子・最雲法親王が第14世梶井門跡となる。

 以後、皇室や摂関家の子弟が歴代の住持となっていたが、1232年(貞永元年)に焼失した後は、京都の洛中や東山を点々としていたのだという。


〜大塔宮と呼ばれる理由〜

 「東山岡崎にあった法勝寺の九重塔(大塔)周辺に門室を置いたとみられることから」という説がある。

 梶井門跡に入室した護良親王は、天台座主第103、107世の覚雲法親王(亀山天皇の皇子)を師としていた。

 その覚雲が師としていたのが天台座主第84、87世の澄覚法親王(後鳥羽天皇の孫)。

 澄覚が住んでいたのが法勝寺辺りにあった梶井門跡の子房「大塔」で、護良親王が最初に入室したのも大塔だったのだという。

 この説によると、大塔宮と呼ばれたのは護良親王が最初ではなく、梶井門跡の子房「大塔」の祖師である澄覚法親王だったのかもしれない。

 大塔宮とは、皇族から天台座主になった者の称だという説も・・・

 ということで、上記の鎌倉検定の問題では、「大塔という場所に居を構えていたから」という記述が正解なのかもしれない。

法勝寺は1076年(承保3年)に白河天皇が建立した天台宗の寺院だったが、応仁の乱後に廃絶。


〜『吾妻鏡』に出てくる大塔〜

 参考までに・・・

 『吾妻鏡』には、1186年(文治2年)閏7月16日、源義経を匿った僧兵を逮捕するため、延暦寺の大塔・西塔横川の末寺や荘園の全てに通知したという記事がある。

 『吾妻鏡』の大塔というのは、現在の東塔のことを指しているのかと思われるが、護良親王が入室したという大塔とは異なるのかも。

延暦寺という名称は、比叡山山内にある東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)にある堂塔の総称。






延暦寺
リンクボタン延暦寺
鎌倉宮
鎌倉観光鎌倉宮

 延暦寺は、最澄によって開かれた天台宗総本山。

 中世には皇族の男子が出家して法親王となり天台座主に就任することが多かった。

 鎌倉宮は、明治天皇が護良親王を祀るために創建した神社。


護良親王墓
鎌倉観光護良親王墓



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