鎌倉手帳(寺社散策)

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薬 王 寺
日蓮の裸像彫刻

編集:yoritomo-japan.com








鎌倉:薬王寺


 薬王寺は、開山は日像、中興は日達と伝えられている。

 日蓮を師事した日像は、遺命によって上京し、比叡山延暦寺などの迫害を受けながらも妙顕寺を建てた。

 薬王寺は、もとは真言宗の梅嶺山夜光寺といったが、1293年(永仁元年)、日像と住職の宗教論議の末、日蓮宗に改宗されたのだという。

 江戸時代には、徳川家との縁が深く、寺紋にも「三葉葵」が使われたため、庶民の埋葬は許可されない格式の高い寺であった。

 江戸幕府三代将軍徳川家光の弟で駿河大納言忠長の供養塔がある。

 本堂に安置されている日蓮像は、1834年(天保5年)、将軍家斉の命によって造られた裸像で、本物の法衣袈裟をまとっている。

 6月と10月に更衣式が行われる。



開山 日像
本尊 久遠本師釈迦牟尼仏


リンクボタン鎌倉の日蓮宗の寺

リンクボタン除夜の鐘:鎌倉〜除夜の鐘が撞ける寺〜





徳川忠長供養塔
徳川忠長供養塔


 駿河大納言忠長は、徳川第三代将軍家光の弟。

 父は二代将軍秀忠、母は浅井長政の三女のお江

 織田信長の妹お市の方は祖母となる。

 1631年(寛永8年)、不行跡を理由に甲府への蟄居を命じられ、翌年改易された。

 そして、1633年(寛永10年)、幕命により配流地の高崎で自害。

 供養塔を建てたのは、忠長の妻松孝院(織田信長の孫)。

 松孝院が莫大な資金を投じたことにより、諸堂が建てられたが1720年(享保5年)に焼失してしまった。

 時代劇に登場した松平長七郎は、忠長のご落胤ともいわれている。



駿河大納言徳川忠長の供養塔(okadoのブログ)





薬王寺・宝篋印塔
宝篋印塔

 裏山墓地にある巨大宝篋印塔は、、織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将・蒲生氏郷の孫・忠知の妻(松壽院)と娘(梅嶺院)の墓。

 忠知の母は徳川家康の娘振姫。

 松壽院は磐城平城主の内藤政長の七女。

 名前は不明。

 1700年(元禄13年)6月27日、死去(89歳)。

 姑の振姫の陽壽院の「壽」を用いて号したと伝えられている。

 「松壽院殿青山日縁大姉」 。

 梅嶺院は、1645年(正保2年)3月19日、死去(12歳)。

 「梅嶺院殿奉山日陽大童女」。



内藤家の墓
リンクボタン内藤家の墓
(光明寺)

 材木座の光明寺には、磐城平藩主・日向延岡藩主だった内藤家の墓がある。





薬王寺観音堂
観音堂


薬王寺鐘楼
鐘楼





〜薬王寺の前の道は、
扇ヶ谷と山ノ内を結ぶ切通〜


亀ヶ谷坂
リンクボタン亀ヶ谷坂
(鎌倉七口)









薬王寺
薬王寺

鎌倉市扇ガ谷3−5−1
0467(22)3749

鎌倉駅西口より徒歩15分



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