1187年(文治3年)10月29日、北方の王者藤原秀衡が亡くなりました。 秀衡は、奥州藤原氏の三代当主。 秀衡は、源頼朝に追われ平泉に逃れてきた源義経を庇護していました。 秀衡は、臨終にのぞみ、長男国衡と次男泰衡を呼んで「源義経を主君として仕え、ともに団結して頼朝の攻撃に備えよ」 と遺言します。 後継者は次男の泰衡(正室の子)とし、長男国衡(側室の子)には、秀衡の正室を娶らせ、互いに異心をもたない旨の起請文を書かせました。 義経にも起請文を書かせたといいます。 そして、10月29日、王国の行く末を心配しながら平泉館で息をひきとりました。 遺体は中尊寺金色堂須弥壇の下に納められ、現在でもミイラとして残されています。 |
※ | 義経が、いつ、どのような経路で奥州に下ったのかは定かではありませんが、1187年(文治3年)の春ごろ、雪解けを待って北陸路から奥州へ下ったものと考えられています。
『吾妻鏡』には、妻子とともに伊勢国から美濃国を通って奥州へ辿り着いたことが記されています。また、一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたといいます。 |
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頼朝が、「義経が秀衡に匿われている」と確信したのは、その年の秋になってからのことのようです。 頼朝は、朝廷に「秀衡が関東に反逆しようとしていること」の申し入れをし、朝廷は秀衡に対して「院庁下文」が発出しました。 頼朝は院庁からの使いと一緒に鎌倉からも雑役を派遣しています。 秀衡の回答は、「背くつもりはない」との内容のようでしたが、雑役の報告では「反逆の準備を進めている」というものだったといいます。 |
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