「青天を衝け」渋沢栄一

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徳川慶喜終焉の地

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徳川慶喜終焉の地


 1867年(慶応3年)、明治天皇に政権返上を奏上して勅許された徳川慶喜は、翌年、寛永寺で謹慎した後、水戸ついで駿府で謹慎生活を送ることとなる。

 同年、養子の田安亀之助 (徳川家達) が徳川宗家を継ぎ、駿府藩主となって駿府城に入っている。

 1869年(明治2年)、謹慎は解かれたが、駿府(静岡)での生活を続け、1897年(明治30年)に東京の巣鴨に移り住んだ。

 1901年(明治34年)には、巣鴨から小日向第六天町に転居。

 翌年には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いた。

 1913年(大正2年)11月22日、急性肺炎のため小日向邸で死去(享年76)。

 葬儀は、幕末に慶喜に仕えた渋沢栄一が葬儀委員長を務めて行われている。



小石川後楽園
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 小石川後楽園は、旧水戸藩江戸上屋敷に造られた庭園。

 徳川慶喜は水戸藩上屋敷で生まれた。



徳川慶喜謹慎の地
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(静岡市:宝台院)


徳川慶喜巣鴨屋敷跡
リンクボタン巣鴨屋敷跡
(豊島区)
徳川慶喜の墓
リンクボタン徳川慶喜の墓
(谷中霊園)









『徳川慶喜公伝』

 『徳川慶喜公伝』は、渋沢栄一が1918年(大正7年)に刊行した伝記。

 栄一は、1893年(明治26年)、明治維新時の慶喜の真意を正しく後世に伝えるために伝記編纂を計画。

 編纂は、深川福住町の渋沢栄一邸や兜町の事務所で行われたのだという。





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渋沢栄一


渋沢栄一生誕地 青天を衝け

東京で渋沢栄一

横浜で渋沢栄一









徳川慶喜終焉の地

東京都文京区春日2-8-9
(国際仏教学大学院大学)



渋沢栄一めぐり東京
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