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日本国新聞発祥の地
〜横浜中華街〜

編集:yoritomo-japan.com







日本国新聞発祥の地碑


 横浜中華街關帝廟通りにある日本国新聞発祥の地碑は、1864年(元治元年)年6月28日、ジョセフ・ヒコが 「海外新聞」を発刊した居館の跡。

 「童子にも読なん(子どもにも読まれる)」とする読みやすくわかりやすい新聞を目指した新聞づくりは、現在の新聞の土台を築き、今でも高く評価されている。



〜発刊された新聞〜

 当初「新聞誌」の名で発刊されたものは、半紙数枚に筆写したものをこよりで綴ったもので、横浜市内に100部程度配られていた。
 翌年には「海外新聞」と改題し、木版刷りで26号まで発行。
 18号からは広告の掲載も行った。



〜ジョセフ・ヒコ〜

 ジョセフ・ヒコの本名は浜田彦蔵(幼名は彦太郎)。1837年(天保8年)8月21日、播磨国に生まれた。

 1851年(嘉永4年)、江戸見物のための航海中、紀伊半島の大王岬沖で難破。
 約2ヶ月の間、太平洋を漂流した後、南鳥島付近でアメリカの商船・オークランド号に救助され、サンフランシスコに渡った。

 アメリカでは、税関長で企業家のサンダースに認められ、カトリックの学校に入学。1854年(嘉永7年)、洗礼を受け、名をジョセフ・ヒコと改めた。
 1858年(安政5年)には日本人として初めてアメリカ市民権を取得している。

 日本が開国したことを知ったヒコは、1859年(安政6年)、長崎を経て神奈川に上陸し、9年振りに帰国。アメリカ領事館通訳として働いた。
 1860年(安政7年)には領事館通訳の職を辞め、貿易商館を開く。
 しかし、尊皇攘夷派の外国人殺傷事件などが頻繁にあったため、身の危険を感じてアメリカへ戻った。

 1862年(文久2年)、再び日本に帰ったヒコは、アメリカ領事館通訳として働くが、1年で辞めて再び商社を設立。
 
 1864年(元治元年)には、英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞といわれる。
 発刊された新聞は、ヒコが外国の新聞を翻訳し、岸田吟香と本間潜蔵がひらがな交じりのやさしい日本文に直したものだったという。

 その後もヒコは、大阪造幣局の設立に尽力したりするなどの活躍をし、1897年(明治30年)12月12日、東京の自宅で亡くなった(61歳)。
 国籍が日本になかったことから、青山の外国人墓地に葬られている。



日本国新聞発祥の地碑

横浜市中区山下町
横浜中華街關帝廟通り






〜横浜:新聞関連情報〜

日本新聞博物館
横浜日本新聞博物館

日刊新聞発祥の地碑
横浜日刊新聞発祥の地



横浜中華街
横浜横浜中華街



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渋沢栄一

横浜で渋沢栄一


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