横 浜 観 光

旧生糸検査所
〜横浜第二合同庁舎〜

編集:yoritomo-japan.com







旧生糸検査所(キーケン)


 1859年(安政6年)に開港した横浜。

 外国商人たちが日本の生糸を買い求め輸出が急増。

 当時、ヨーロッパでは蚕の伝染病が流行し、生糸産出国の中国では内乱によって生産が激減していたことから、日本の生糸が注目され、生糸産業は大いに栄えた。

 旧生糸検査所(キーケン)の建物は、そんな横浜の歴史を伝えている。

 キーケンは、1896年(明治29年)に生糸検査所として発足。

 1923年(大正12年)の関東大震災では、生糸取引所・生糸検査所・絹業試験場が被災し、各倉庫に保管されていた生糸約5万5千梱(3万俵余り)が焼失したのだという。

 1926年(大正15年)、遠藤於莵の設計により、当時の横浜としては最大規模の建物が完成。

 その建物は、1990年(平成2年)、現在の横浜第二合同庁舎建設にともない解体されたが、新庁舎の低層部分に同じデザインで再現されている。

 横浜市認定歴史的建造物。


旧生糸検査所(キーケン)
キーケンの模型

旧生糸検査所(キーケン)
現在の模型







生糸検査所が発足するまでの歴史


〜生糸改会社〜

 生糸貿易が盛んとなって輸出が伸びてくると、生産が追いつかず、質の低い製品が多く作られるようになり、粗悪品を取締まる必要がでてきた。

 政府は、1873年(明治6年)、横浜生糸売込商、地方生糸商人らを指導して生糸改会社を設立させた。

 しかし、外国側は政府と生糸商人が結びついて商売をすることは、外国商人にとって不利となり、貿易の自由を保障する通商条約に違反するとして反対。

 4年後の1877年(明治10年)には、廃止せざるをえなくなった。


〜連合生糸荷預所〜

 荷預所は、1881年(明治14年)に茂木惣兵衛、渋沢喜作、原善三郎らによって設立された生糸取引機関。

 日本商人が不利益とならないようにするため、外国商人による一方的な商慣習を廃止するために設立された。

 しかし、外国商人は不買同盟を結成し、荷預所からの買取り拒否という対抗策をとったことから、生糸取引が2ヵ月間停止するという事件に発展。

 渋沢栄一らと横浜外国人商業会議所会頭ウイルキンが和解に乗出し、荷預所は条件つきで解散することとなった。

 結果は、日本側の敗北となったが、この事件を契機に生糸の売込商体制が確立していくことになる。


〜生糸検査所〜

 1896年(明治29年)、生糸検査所が発足。

 外国商人に検査されるのではなく、日本商人自らが検査することを目的にフランスから機械を買い入れて事業が開始された。

 しかし、開業当初の利用者は少なかったのだという。

 そのため、1925年(大正14年)には、広大な庁舎や倉庫を建設。

 1927年(昭和2年)には、輸出生糸のすべてに対して強制的に正量検査が行われるようになった。

 これにより、高品質な製品が確保されるようになったのだが・・・

 その後の横浜における生糸取引は、徐々に衰退していく運命にあったのだという。



富岡製糸場
リンクボタン富岡製糸場
(画像提供 富岡市)

 群馬県富岡市の富岡製糸場は、1872年(明治5年)、生糸の品質改善・生産向上と技術指導者の育成を目指して設置された官営工場。

 設立された前年、宮中養蚕を復活させた昭憲皇太后も1873年(明治6年)に行啓している。

 リンクボタン昭憲皇太后と養蚕


横浜で渋沢栄一






〜生糸売込商の多くが上州商人だった〜

 横浜では、生糸の産地だった上州(群馬県)出身者の中居屋重兵衛、吉村屋幸兵衛、茂木惣兵衛などが活躍。

生糸貿易商 中居屋重兵衛店跡
横浜中居屋重兵衛店跡

 横浜で上州生糸の貿易を独占した中居屋重兵衛の店舗跡。


シルクセンター
横浜シルクセンター

 かつて世界一の輸出量を誇った日本の生糸。
 山下町のシルクセンターは生糸・絹産業の振興を目的として開館した。



旧生糸検査所(キーケン)
横浜第二合同庁舎

神奈川県横浜市中区北仲通5−57

みなとみらい線「馬車道駅」4番出口下車



横浜馬車道
横浜横浜馬車道

馬車道は、幕末の横浜開港とともに始まり、吉田橋の関門から開港場へと続く道。



横浜馬車道MAP
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